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柳沢敦

柳沢敦
名前
愛称 ヤナギ
カタカナ ヤナギサワ アツシ
ラテン文字 YANAGISAWA Atsushi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-05-27) 1977年5月27日(47歳)
出身地 日本の旗 日本富山県射水市
身長 177cm
体重 75kg
選手情報
ポジション FW / MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-2005 日本の旗 鹿島アントラーズ 178 (71)
2003-2004 イタリアの旗 サンプドリア (loan) 15 (0)
2004-2005 イタリアの旗 メッシーナ (loan) 22 (0)
2005-2006 イタリアの旗 メッシーナ 7 (0)
2006-2007 日本の旗 鹿島アントラーズ 42 (9)
2008-2010 日本の旗 京都サンガF.C. 85 (21)
2011-2014 日本の旗 ベガルタ仙台 66 (7)
代表歴2
1998-2006[1] 日本の旗 日本 58 (17)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月31日現在。
2. 2006年6月18日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

柳沢 敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日 - )は、富山県射水郡小杉町(現・射水市)出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時のポジションは主にフォワード(FW)。元日本代表

J1リーグ在籍17年連続ゴールのリーグ記録を持つ(2014年時点)[2][3]2002年2006年にはFIFAワールドカップを経験している。

妻はモデルの小畑由香里

来歴

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学生時代

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1977年生まれ。当時父親は地元の運送会社に勤めていたが[4]、後にラーメン店を開いた[5]。柳沢は小学校1年になると小杉SSCに入団してサッカーを始め、中学時代にはFCひがしジュニアユースに所属し、U-15日本代表に選出されている[6]富山第一高等学校では3年連続で国体および高校総体への出場を経験し、高校3年時の高校選手権では超高校級選手として大会の目玉となりJリーグのスカウトの注目を集めた。

Jリーグ時代

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Jリーグの13チームから声がかかり、その中から鹿島アントラーズへの加入を選択する[7]。5月にナビスコ杯福岡戦でプロデビュー。この年はリーグ戦で5得点を挙げている。翌1997年は8得点を挙げて新人王に選出され、更に1998年にも22得点を記録するなど鹿島のエースに成長した。岡田ジャパンでフル代表へ初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾った[1]4月4日の対京都戦では1試合4得点を記録している。5月5日の対磐田戦でもハットトリックを達成。しかし、代表での得点はなく(後述)、岡田監督からはゴールへの執着心に欠ける点を指摘され、フランスW杯の最終メンバーからは外れた。

1999年に日本代表監督に就任したトルシエの指揮するU-23代表のエースとして期待されていたが、シドニー五輪アジア1次予選最中にチームを無断で抜け出して、当時の恋人梨花と密会していたことが原因となり、チームから強制的に外され、その後も一時期代表に呼ばれなくなった[8][9]。五輪チームでは長く続いた無得点スランプから抜け出し、やっと得点を決めた直後の出来事であった。

2000年、5月20日のサンフレッチェ広島戦でキャリア初のレッドカードを受けた[10]6月6日に行われたハッサン2世国王杯ジャマイカ戦でフル代表初ゴールを挙げた[1]レバノンで開催されたアジアカップ決勝のサウジアラビア戦では高原直泰との交代で途中出場したものの、絶好の決定機にシュートしないなど、消極的なプレーにいらだったトルシエ監督によってわずか7分後に奥大介との交代を命じられた[11]

2001年は1stステージ第6節浦和レッズ戦でシーズン初得点を挙げると、公式戦4戦連続ゴールを記録するなど復調。優勝のかかった東京ヴェルディ戦では2得点を挙げて2ndステージ優勝に大きく貢献。リーグ戦では98年シーズン以来となる2桁得点・12得点を挙げ鹿島のJリーグ優勝に貢献しJリーグベストイレブンを受賞した[12]

2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出される。ベルギー戦終了後に首を痛め、3戦目のチュニジア戦時には激しい痛みに襲われ完全に動かなくなり、トルコ戦では起用されなかった[7]ロシア戦で決勝点につながるアシストを記録するなどチームのベスト16進出に貢献し、中田英寿からはチーム内のMVPと称賛されている[7]

2003年シーズンは開幕前の怪我の影響もありエウレル平瀬智行にスタメンを譲る時期もあったものの、7節以降はスタメンを再奪取した。7月5日にホームで行われたジュビロ磐田戦を最後にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付きで初の海外移籍を果たした。同年12月24日にはモデルの小畑由香里と入籍[13]

セリエA時代

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2003-04シーズンはサンプドリアでリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わった。クラブ側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団、引き続き海外でのプレーを希望し、同セリエAのFCメッシーナと契約、鹿島からの1年間の期限付き移籍の形をとった。

2004-05シーズンはメッシーナ移籍後、8月22日コッパ・イタリアの1回戦でアチレアレから1ゴール1アシストの活躍でイタリア公式戦初ゴールをあげ、レッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載るなどしたが、[14] リーグ戦では22試合で無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の招集がかからなくなった時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの招集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、W杯出場のかかった6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりの決勝ゴールを挙げた。またコンフェデレーションズ杯メキシコ戦では難易度の高いゴールを決める活躍を見せた。

2005-06シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望し、メッシーナに完全移籍を果たす。ただ、この時はメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。シーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれるなど、一定の評価を得ていたが、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しい時期が続いたが日本代表に招集されたホンジュラス戦では2ゴールを挙げるなどの活躍もみせた。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。

Jリーグ復帰

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2006年の鹿島では背番号は13番をつけ、復帰戦となった3月5日のJ1開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成した。これがJリーグでは、自身3度目のハットトリックとなった[15]。しかし、3月25日千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された[16]。怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出され2試合に出場したが、消極的なプレーに終始し、クロアチア戦では決定機を外し無得点に終わり批判を浴びる[17][18]。結果的にこのクロアチア戦が日本代表として出場した最後の試合となった。W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により鹿島へ完全移籍したが、J復帰元年は4得点に終わった。

2007年シーズン前には本田泰人の引退を受けて鹿島の新主将、選手会長に就任した[19]。リーグ戦ではクラブワーストとなる開幕5試合勝ちなしを喫するなど躓いたものの、6節横浜FC戦でシーズン初勝利に導くシーズン初ゴールをあげ、7節清水エスパルス戦でも2ゴールをあげたが、この試合で負傷し長期離脱。ナビスコ杯準々決勝第2戦の広島戦で85日ぶりに復帰し、2アシストを記録。しかし、リーグ戦では第5節を最後にフル出場がなく、田代有三興梠慎三の台頭でスタメン落ちも多くなっていた。そうした中で、シーズン終了後にクラブに移籍志願をしたと報じられた。天皇杯決勝ではダニーロの得点をアシストし、クラブに11個目のタイトルをもたらしたのを置き土産に鹿島を退団した。

2008年、出場機会を求め多くのクラブが獲得を打診する中で京都サンガF.C.への移籍を決断した。低迷するチームの残留に貢献し、3月16日に移籍後リーグ2戦目の大宮戦で、ゴール前での混戦からこぼれ球を決め移籍後初ゴールを決める。夏場以降はコンスタントに得点を重ね続け、従来課題であった得点力を改善し、自身2001年以来の二桁得点、同季の日本人最多得点である14得点を記録した。同年は7年ぶりにJリーグベストイレブンにも選出された。

2009年もエースとして期待されたが、開幕前に痛めた左ひざの影響で本調子が出ずに4月に半月板の手術のため離脱。第15節に復帰してからは不動のレギュラーとして試合に出続けた。また前年と同じく低迷するチーム事情により本来のポジションではない位置でのプレーを任せられチームの残留に貢献した。

2010年から佐藤勇人の移籍を受け、サンガの新主将に任命された[20]。5月5日の清水戦で、史上6人目のJリーグ通算100ゴールを達成した[21] 際、前日に第一子(長男)が誕生したことで、京都の他の出場選手と共に「ゆりかごダンス」を披露した[22]。しかし、クラブはその後も低迷が続き、J2降格が濃厚になった11月にクラブから戦力外通告を受ける。この決定に対し、サポーターからは疑問の声が上がり、公式サイトにて声明文が発表されるJクラブでは異例の事態となった[23]。2008年以来の凱旋となった鹿島戦では、これまでの労をねぎらった横断幕が鹿島サポーターから掲げられ、交代時には大きな拍手が沸き起こった。

2011年ベガルタ仙台に完全移籍。背番号を今までの13から30にし、移籍会見では背番号だけの得点を決めたいと抱負を語った。開幕戦はベンチ入りしたが出番がなく、震災による中断期間中に古傷の違和感を訴え手術を決断。ベガルタでのデビューは6月16日までずれ込んだ。デビュー後も無得点が続き、特に8月20日の名古屋戦では前線からの積極的な守備によりゴールキーパーからボールを奪うものの、その後のシュートを外してしまい[24]、試合中にもかかわらず味方の角田誠から「柳沢を交代させろ」との声が上がるなどチームの信頼を得るには至らず[25]、ようやくJ1第27節横浜F・マリノス戦で移籍後初ゴールを決める。結局これがシーズン唯一のゴールとなり、シーズン終了を待たずに膝の手術をしたため、公式戦17試合1得点にとどまった。

2012年には中島裕希の移籍に伴い背番号13に変更。6月16日札幌戦でようやくユアテックスタジアム仙台での初得点を記録した。奇しくも仙台の選手としてデビューして丸1年後の出来事であった。レギュラーFWの赤嶺真吾ウイルソンが絶好調と言うこともあって、決して出場機会は多くはなかったが、全試合にメンバー入りした。

2013年は開幕からしばらくは故障でメンバーから外れていたが、公式戦初先発となった4月10日のAFCチャンピオンズリーグ4節FCソウル戦で得点を決め、仙台にACL初勝利をもたらした。5月6日の名古屋戦でリーグ戦初得点を記録。柳沢のJ1での得点は16シーズン目となり、第一線を退いているFW中山雅史、神戸FW吉田孝行(同シーズン限りで引退)、G大阪MF遠藤保仁の記録を更新した。夏場にコンディションをあげ、2008年京都時代以来5年ぶりに古巣鹿島相手にも得点した[26]。第34節FC東京戦で相手選手と交錯した際、右足小指を骨折し全治8週間と診断された[27]

2014年グラハム・アーノルド新監督の元、開幕から出場機会に恵まれず、攻撃陣の不調で出番が回ってきた矢先、4月6日の浦和戦で槙野智章と競り合った際に左足腓骨を亀裂骨折し長期離脱することとなった[28]。それでも11月2日のG大阪戦で後半ロスタイムに同点となるリーグ戦初得点を挙げ、J1リーグ戦17シーズン連続得点を記録、自身の持つJリーグ記録を更新した。そして最終節を2日後に控えた12月4日、現役引退が発表された[29]

引退後

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2015年に鹿島アントラーズのコーチに就任し8年ぶりに古巣復帰した[30]。2018年6月8日付でコーチを辞任(詳細は柳沢敦#不祥事を参照)。

2019年1月、鹿島アントラーズのユースチームのコーチに就任する事が発表された[31]

不祥事

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1999年6月、2000年シドニーオリンピックアジア地区第一次予選期間中に無断でチームを離れ、当時交際中の梨花と密会していたことが写真週刊誌「FOCUS」で報道された。この報道を受け、当時U-23代表監督のフィリップ・トルシエから代表を更迭された。

2018年6月、チーム遠征から無断で離れ、都内のホテルで知人の女性と密会する現場を週刊女性にスクープ報道された[32]。この報道を受け、所属先の鹿島アントラーズは規律違反処分として、柳沢の自宅謹慎(無期限)を発表した[33]。同年6月8日付でコーチを辞任[34]

引退試合

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2015年7月5日に中田浩二新井場徹と合同での引退試合が行われた。


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中田浩二 柳沢敦 新井場徹 合同引退試合
ANTLERS LEGENDS 5 - 2 KAY FRIENDS
柳沢敦 15分にゴール 15分
新井場徹 39分にゴール 39分
興梠慎三 64分にゴール 64分
中田浩二 84分にゴール 84分 (PK)
マルキーニョス 90+1分にゴール 90+1分
公式サイト 三浦知良 29分にゴール 29分
福西崇史 43分にゴール 43分

出場選手

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ANTLERS LEGENDS
KAY FRIENDS

プレースタイル

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オフ・ザ・ボール、動き出し、スペースの作り方などに秀でた選手[3][7][35][36]。運動量も豊富で、ディフェンスも巧みにこなす[35]。ゴール前でのプレーの精度も高く[37]、得点感覚にも優れる[7]。鹿島時代に当時の総監督であったジーコから「オフ・ザ・ボールの動きを身につけろ。シュート練習は一切やらなくていい」と命じられ、オフ・ザ・ボールに没頭した[35]。「点を取るだけがFWではない」と語り物議を醸したこともあるが、自身の得点がなくとも動きで得点に貢献することが多かった[36]。 日本代表通算得点数は歴代13位の17得点[38]、Jリーグでは引退した2014年時点で歴代10位、日本人6位となる通算108得点を記録している[3]

エピソード

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  • 三浦知良を尊敬する[3]
  • 鹿島アントラーズや日本代表で背負うことの多かった背番号13は強化部門トップの鈴木満フットボールダイレクターによって決められたもので「西ドイツ代表FWゲルト・ミュラーにあやかってとにかく“点取り屋になってほしい”という思いで13番を与えました」と話している。その後自身は日本代表の常連となり、チームに多くのタイトルをもたらすなど、鹿島の13番を特別な背番号にしていった[39]
  • 幼稚園児だった1983年(昭和58年)10月、その年富山県で開催された第7回全国育樹祭開会式に出席していた皇太子明仁親王・同妃美智子(後の上皇・上皇后)の前で他の園児たちとお遊戯を披露した。子どもたちは美智子を「近くにお見せしたいものがある」と誘い、美智子は子どもたちと手をつないで走り出し、柳沢も美智子のすぐ後ろを走った(その瞬間の報道写真が現在も残っている)。それから18年たった2002年(平成14年)、日本代表対スウェーデン代表の親善試合を上皇夫妻が観覧した際に選手ひとりひとりに声がけをしたところ、柳沢は上皇后に「昔、富山に来られたときのことをご記憶でございますか」と尋ねた。上皇后はすぐに思い出し、柳沢が「そのときにお遊戯をしました」と明かしたところ、大変驚いていたという[40]
  • 日韓W杯を前にした2002年4月29日のスロバキア戦で、「柳沢の右足でのセンタリングが恐ろしいほど正確だ」として、トルシエが柳沢を右ウイングバックに置くプランを実行した事がある。しかし実践ではこのテストマッチ1試合だけにとどまり、アイディア倒れに終わった[41][42]
  • ドイツW杯2戦目の対クロアチア戦では右サイドの加地亮のシュートがフリーの位置に詰めていた自身に来たものの、セオリー通りの左足インサイドでなく難易度の高い右足アウトサイドを選択し決定機を逃してしまった[43]。集中力を欠いたパフォーマンスと受け取られ[44]、世界各国から批判される[45][46][47]。ジーコも柳沢を批判している[48]。これは、試合後の「急にボールが来たので」とのコメントとあいまって[49]、それまでの代表におけるパフォーマンスの象徴とみなされている[50]。この発言は「QBK」との略称が生まれるほどの反響を呼び[51][52]、同年の現代用語の基礎知識2007年版にも掲載された[53]。なお、帰国後のインタビューにおいて、「加地がシュートを打つ体勢だったから、打つと思ってキーパーにつめていこうという意識だったんですけど、シュートが急にこっちに来て、足を出して・・・。う〜ん、予測できてなかったと言えばそうだった。ああいうのに反応できてこそとは思うし、やっぱり決めるべきチャンスだったと思いますね」と弁明している[54]。また2001年11月7日に行われたキリンチャレンジカップイタリア戦で稲本潤一からのパスをアウトサイドからのボレーシュートで先制した[55] 記憶が、あの場面でのアウトサイド選択につながったと中山雅史が柳沢の引退セレモニー(2015年7月5日。引退試合と同日)で明かしている[56]
  • 2011年ベガルタ仙台へ移籍し、直後に東日本大震災に遭う。クラブの活動再開の目途が立たない中、市役所に電話をかけ自らボランティア登録をし、ボランティア活動に参加。リハビリ中も継続してボランティア活動を行った[57][58]
  • テレビ東京系列で放送されている「FOOT×BRAIN」において、福田正博が「柳沢と引退後に初めてプレーしたが恐ろしいFWだ。同じチームでプレーしていたら僕は倍の得点を取れた」と柳沢をFWとして高く評価していた。
  • 震災を経て「僕が仙台を選んだのではなく、仙台が僕を選んでくれた」と考えるようになったと語った[58]
  • 2018年、生まれ故郷の射水市黒河地区にある黒河神社の石灯籠に初老記念として名前が刻まれた。

所属クラブ

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ユース経歴
プロ経歴

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1996 鹿島 - J 8 5 6 1 1 0 15 6
1997 13 25 8 9 2 5 2 39 12
1998 32 22 5 0 1 0 38 22
1999 J1 26 9 3 1 2 0 31 10
2000 26 6 3 0 3 1 32 7
2001 26 12 5 2 1 1 32 15
2002 27 7 3 0 5 1 35 8
2003 8 2 - - 8 2
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2003-04 サンプドリア 13 セリエA 15 0 3 0 - 18 0
2004-05 メッシーナ 20 22 0 4 1 - 26 1
2005-06 13 7 0 0 0 - 7 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2006 鹿島 13 J1 23 4 3 1 2 1 28 6
2007 19 5 6 2 5 2 30 9
2008 京都 32 14 6 1 2 0 40 15
2009 22 4 5 1 2 1 29 6
2010 31 3 5 3 2 0 38 6
2011 仙台 30 17 1 1 0 0 0 18 1
2012 13 16 2 4 0 2 0 22 2
2013 20 3 0 0 1 0 21 3
2014 13 1 0 0 1 1 14 2
通算 日本 J1 371 108 64 14 35 10 470 132
イタリア セリエA 44 0 7 1 - 51 1
総通算 415 108 71 15 35 10 521 133

その他の公式戦

  • 1997年
  • 1998年
    • スーパーカップ 1試合1得点
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
  • 1999年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2000年
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
  • 2001年
    • スーパーカップ 1試合0得点
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
  • 2002年
    • スーパーカップ 1試合0得点
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2002-03 鹿島 13 0 0
2013 仙台 3 1
通算 AFC 3 1

その他の国際公式戦

  • 1998-99年
  • 2003年
  • その他の大会通算成績 32試合13得点
  • 鹿島アントラーズ通算成績 1996-2003, 2006-2007年:324試合110得点
  • 京都サンガF.C通算成績 2008-2010年:107試合27得点
  • ベガルタ仙台通算成績 2011-2014年:78試合8得点

タイトル

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クラブ

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鹿島アントラーズ

代表

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個人

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 58試合 17得点(1998年 - 2006年)[1]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1998 2 0
1999 4 0
2000 10 4
2001 6 5
2002 9 0
2003 5 2
2004 8 2
2005 10 4
2006 4 0
通算 58 17

ゴール

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# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年6月6日 モロッコ ジャマイカの旗 ジャマイカ ○4-0 親善試合
2. 2000年6月18日 日本 ボリビアの旗 ボリビア ○2-0 キリンカップサッカー2000
3.
4. 2000年10月14日 レバノン サウジアラビアの旗 サウジアラビア ○4-1 AFCアジアカップ2000
5. 2001年8月15日 日本 オーストラリアの旗 オーストラリア ○3-0 親善試合
6. 2001年7月1日 パラグアイの旗 パラグアイ ○2-0 キリンカップサッカー2001
7.
8. 2001年10月7日 イングランド ナイジェリアの旗 ナイジェリア △2-2 親善試合
9. 2001年11月7日 日本 イタリアの旗 イタリア △1-1
10. 2003年10月8日 チュニジア チュニジアの旗 チュニジア ○1-0
11. 2003年10月11日 ルーマニア ルーマニアの旗 ルーマニア △1-1
12. 2004年2月12日 日本 イラクの旗 イラク ○2-0
13. 2004年7月9日 スロバキアの旗 スロバキア ○3-1 キリンカップサッカー2004
14. 2005年6月8日 タイ 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国 ○2-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
15. 2005年6月16日 ドイツ メキシコの旗 メキシコ ●1-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
16. 2005年9月7日 日本 ホンジュラスの旗 ホンジュラス ○5-4 親善試合
17.

指導歴

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  • 2015年 - 鹿島アントラーズ
    • 2015年 - 2018年6月 トップチームコーチ
    • 2019年 - 2020年 ユースコーチ
    • 2021年 - ユース監督

出演

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CM

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  • 昭和産業
    • 「油汚れの少ない唐揚げ粉」 (1999年)
    • 「天ぷら粉・黄金の粉」 (1999年)
  • 日清食品「焼豚屋」 (2002年)
    • 『バス篇』 - 本山雅志との共演
    • 『飛行機篇』 - 本山雅志との共演

作品

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書籍

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  • 俺のシュートを受けてみろ!-若きストライカーの自画像 (1997年、主婦と生活社、ISBN 4391120364)
  • 柳沢敦(鹿島アントラーズ)カレンダー2003 (2002年、ハゴロモ、ISBN 489495317X)

DVD

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  • 柳沢敦DVDバイオグラフィーAの肖像 (2003年)

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 内田は負傷中、稲本は体調不良のため出場せず。

出典

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  1. ^ a b c d “柳沢 敦”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ya/atsushi_yanagisawa.html 
  2. ^ 仙台柳沢17年連続弾!J1歴代単独1位 nikkansports.com 2015年1月24日閲覧。
  3. ^ a b c d 柳沢引退「鹿島のタイトル、W杯印象に」 nikkansports.com 2015年2月2日閲覧。
  4. ^ 『俺のシュートを受けてみろ!』11ページ。
  5. ^ 『俺のシュートを受けてみろ!』21ページ。
  6. ^ 柳沢敦 Atsushi Yanagisawa | Sports Section - DISCOVERY ENTERTAIMENT
  7. ^ a b c d e 120分激白!柳沢敦が本誌だけに語った「批判され物議を醸したこともあったけど、自分の考え方は今も変わらない」 - ライブドアニュース(週プレNEWS)(2015年1月6日) 2015年12月20日閲覧
  8. ^ 「ワイド特集 人生「暗い淵」からの脱出 9 女性スキャンダル尾を引いて「柳沢敦」五輪出場外し」『週刊新潮』第44巻第41号、新潮社、1999年10月28日、54頁、ISSN 0488-7484NAID 40001693576 
  9. ^ 「《ミニワイド》焙り出された「闇」! 3. 逢引きがバレて五輪代表追放、柳沢敦を腑抜けにした年上モデル」『週刊宝石』第19巻第26号、光文社、1999年7月15日、184頁、NAID 40004384478 
  10. ^ mobaj. “モバJデータ - Jリーグ情報データベース”. mobaJ data. 2022年11月9日閲覧。
  11. ^ アジアカップを振り返る -1- 《アジアカップ2000 レバノン大会》 - J's GOAL(2007年06月25日)
  12. ^ 2001 Jリーグアウォーズ” (2001年12月31日). 2012年8月22日閲覧。
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  40. ^ 「秘蔵写真集『皇后さまと子どもたち』で初めて明かされる美智子さまと人気Jリーガー柳沢敦との18年ぶり再会〝秘話〟」『サンデー毎日』第87巻第46号、毎日新聞社、2008年10月26日、30-32頁。 
  41. ^ KIRIN公式マッチレポート「右アウトサイドに本来FWの柳沢」
  42. ^ KIRINCUP MUSEUM「トップでプレーしていた柳沢敦が右のウイングバック」
  43. ^ BBC SPORT WORLD CUP 2006 Virtual Replay - BBCによる再現
  44. ^ フランスのレキップ紙は、「技術以前の問題だ」と断じている。
  45. ^ リティ「ギプスつけても決まる」柳沢酷評 - 日刊スポーツ(2006年6月20日)
  46. ^ ブラジル報道、日本を酷評 - 日刊スポーツ(2006年6月19日)
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  48. ^ ジーコ「いまこそ本心を語ろう」 - Number Web(2006年9月28日)
  49. ^ 柳沢、沈痛 目うつろ - ウェイバックマシン(2006年6月21日アーカイブ分) - 中日新聞(2006年6月19日)
  50. ^ 柳沢敦 愛される理由。――なぜ彼はあの時、蹴らなかったのか? - Number Web(2009年4月22日)
  51. ^ 今日は何の日? 柳沢敦、QBK事件 - スポルティーバ 公式サイト(2012年6月18日)
  52. ^ 「柳沢がW杯クロアチア戦「QBK」語った」 - 日刊スポーツ(2011年2月26日)
  53. ^ 流行語大賞狙う「急にボールが来たので」 - J-CASTニュース(2006年11月12日)
  54. ^ 泣いてたまるか!鹿島アントラーズFW 柳沢敦 - ウェイバックマシン(2007年2月2日アーカイブ分) - サンケイスポーツ(2007年1月16日)
  55. ^ 日本代表対イタリアの歴史、過去の試合ハイライトまとめ
  56. ^ 中山“QBK”言及あいさつに柳沢は感謝「ゴンさんの優しさを感じた」ゲキサカ、2015年7月5日記事
  57. ^ 柳沢敦インタビュー「ベガルタのため、仙台のため、宮城のために何ができるか」(前編) - スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム(2011年6月22日)
  58. ^ a b 柳沢敦インタビュー「ベガルタのため、仙台のため、宮城のために何ができるか」(後編) - スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム(2011年6月22日)

関連項目

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外部リンク

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柳沢敦
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