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葛井寺

葛井寺
本堂
所在地 大阪府藤井寺市藤井寺1丁目16-21
位置 北緯34度34分12.67秒 東経135度35分47.60秒 / 北緯34.5701861度 東経135.5965556度 / 34.5701861; 135.5965556座標: 北緯34度34分12.67秒 東経135度35分47.60秒 / 北緯34.5701861度 東経135.5965556度 / 34.5701861; 135.5965556
山号 紫雲山
宗派 真言宗御室派
本尊 十一面千手千眼観音菩薩国宝
創建年 神亀2年(725年
開山 行基
開基 聖武天皇(勅願)
正式名 紫雲山 葛井寺
別称 藤井寺、剛琳寺
札所等 西国三十三所第5番
河内西国三十三所特別客番
河内飛鳥古寺霊場第4番
神仏霊場巡拝の道第59番(大阪第18番)
文化財 乾漆千手観音坐像(国宝)
四脚門(重要文化財)など
公式サイト 西国五番 葛井寺(ふじいでら)ホームページ〜大阪|藤井寺|厄除け|安産祈願〜
法人番号 8120105005016 ウィキデータを編集
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阿弥陀堂と出世地蔵(手前)
護摩堂
大師堂
南大門

葛井寺(ふじいでら)は、大阪府藤井寺市藤井寺にある真言宗御室派寺院山号は紫雲山で、本尊は日本最古の十一面千手観世音菩薩(千手観音)。聖武天皇勅願寺神亀2年(725年)に創建され、開山行基と伝えられる。西国三十三所第五番札所。

本尊真言:おん ばざら だらま きりく そわか 

ご詠歌:参るより頼みをかくる葛井寺 花のうてなに紫の雲

歴史

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寺伝によると聖武天皇より古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、別説では元々は葛井連氏寺であったとされている。

葛井連の前身である白猪氏百済辰孫王の後裔である王辰爾の甥である胆津を祖としており、『日本書紀』によれば、吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績により白猪氏の姓を賜ったとされている[1]奈良時代養老4年(720年)に白猪氏は葛井連(藤井連)(ふじいのむらじ)に改姓しており、葛井寺は、一族の葛井連広成が創建したとされている[1]。また、葛井一族からは大安寺僧である慶俊が出ている。

大同元年(807年)にの葛井氏の出身である藤子(葛井連道依娘)と平城天皇の間に生まれた皇子である阿保親王によって再建された。また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した[2]。中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。

発掘調査によって7世紀中葉の西琳寺式軒丸瓦や7世紀後半の善正寺[要曖昧さ回避]式軒丸瓦が出土しており、7世紀後半には建立されたことが判明している。なお、8世紀前半の大安寺式軒瓦や難波宮式軒瓦(重圏紋軒丸瓦・重郭紋軒平瓦)が多数出土しており、この頃伽藍の整備がなされたと考えられる。

永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が、荒廃した伽藍を修理したと伝える。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。

室町時代には、興福寺の末寺として栄え、伽藍は東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったが、明応2年(1493年)に起きた畠山氏の内紛に端を発した兵火によって楼門、中門、三重塔、鎮守社、奥の院を焼失し、本堂と堂塔を残すのみとなった[1]。また、永正7年(1510年)の地震で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建である[3]

重要文化財の四脚門は、慶長6年(1601年豊臣秀頼により南大門として建てられたものである。

境内

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文化財

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国宝

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乾漆千手観音坐像
神亀2年(725年)、聖武天皇が42歳のときに自身の厄除けを祈願して稽文會と稽主勲に造らせ、行基によって開眼法要が営まれたと伝えられる。日本最古の千手観音像にして大阪府唯一の天平仏で、文字通り千本の手を持つ数少ない「真数(しんすう)千手」である。胸前で合掌する2本の手を含め合計1041本の大小の脇手が円形に展開しており、千本以上の手を持つ千手観音像は本像しか確認されていない。天平彫刻の最高傑作のひとつとされる。鎌倉期には六角宝殿内に安置されていたという。八稜形框上に宝瓶を据えた五重蓮華座上に坐し、像高(髻頂部まで)は130.2cm(頂上仏面を含めた像高は144.2cm)。
合掌する本手を含む本体は大陸から伝来した脱活乾漆法(麻布を漆で貼り重ねて像の形をつくる)で造られ、これに木心乾漆の大小手(脇手)を組み合わせた構造で、X線透視による内部調査では天平前期乾漆像の特徴を示している。
脇手は持物をもつ大手38本、小手1001本(右500本、左501本)で、造像当初にはすべての脇手に墨描で眼が表されていたと考えられており、現在も一部の墨描が残存している。合掌手を除く大小の脇手は、像の背後に立てた2本の支柱に打ち付けられており本体とは離れているが、正面から見ると像本体から千手が生えているように見える。
脇手の一部、頭上面の一部、持物のすべて、台座蓮弁の大部分などを後補とする。彫像の千手観音像は40本(合掌手2本を合わせて42本)の手で「千手」を代表させるものが多いが、本像のように実際に千本の手を表現する千手観音像は少ない(本像のほかには唐招提寺金堂像などがある)。図像的には、宝鉢手を表さず、大手を通例の42本ではなく40本に表す点が珍しい。
『千手千眼陀羅尼経』が将来された天平年間(729年 - 749年)には、天平12年(740年)8月に藤原広嗣の乱が起こり、同年9月15日には勅願により国ごとの観世音像の造像と観世音経の写経が行われている。この際の観音像の像容は本像と一致することから、葛井寺像は藤原広嗣の乱鎮圧を祈念して造立されたものであるとする説もある[5]
2018年には東京国立博物館で「仁和寺御室派のみほとけ」展のために江戸時代以来の出開帳が行われた。

重要文化財

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四脚門
  • 四脚門(西門)

大阪府指定有形文化財

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  • 石灯籠 - 1970年(昭和45年)2月20日指定。
本堂裏の庭園にある石灯籠であり、高さ230cmで上から宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎から構成されており、笠に一部欠損があるもののほぼ完全な形で保存されている[6]。銘は無いものの製作時期は鎌倉時代と考えられる[6]
  • 金銅宝塔 - 1983年(昭和58年)5月2日指定。
高さ45cmの小塔であり、舎利信仰を背景に製作されたものである[6]。時代は鎌倉時代を下らないとされる[6]

藤井寺市指定有形文化財

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本尊の左に安置されている欅の一木造の観音菩薩像であり、作者や来歴は不詳ながら平安時代の貴重な木像とされている[7]
  • 木造地蔵菩薩立像 - 2006年(平成18年)3月9日指定。
本尊の右に安置されている松の一木造の地蔵菩薩像であり、作者や来歴は不詳ながら平安時代の貴重な木像とされている[8]

行事

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千日まいり

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8月9日の千日会式の日の参詣をいう。この日に参詣すると四万六千日の功徳が得られるとされ、多数の参詣者が訪れる。また、本尊の千手観音像が特別に開帳される。

観音会

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毎月18日。千手観音像が開帳される。とくに1月18日は初観音会と称する。

前後の札所

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西国三十三所
4 施福寺 - 5 葛井寺 - 6 壺阪寺(南法華寺)
河内西国三十三所
特別客番 大念佛寺 - 特別客番 葛井寺 - 特別客番 高貴寺
河内飛鳥古寺霊場
3 大聖勝軍寺 - 4 葛井寺 - 5 道明寺
神仏霊場巡拝の道
58 道明寺天満宮 - 59 葛井寺 - 60 枚岡神社

現地情報

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所在地

交通アクセス

周辺情報

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脚注

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  1. ^ a b c 葛井寺と国宝千手観音 - 藤井寺市2019年4月27日閲覧。
  2. ^ 朝日新聞2004年1月30日。
  3. ^ 本節は石川知彦「葛井寺の歴史と宝物」『国宝葛井寺千手観音』(大阪市立美術館、1995)所収による。
  4. ^ 建物の説明は(大阪市立美術館、1995)pp16 - 19による。
  5. ^ 千手観音像については、(大阪市立美術館、1995)pp36 - 45、松浦正昭「千手観音坐像」『週刊朝日百科 日本の国宝3 近畿1』による。
  6. ^ a b c d 金銅宝塔と石造灯籠 - 藤井寺市2019年4月27日閲覧。
  7. ^ 聖観音菩薩立像 - 藤井寺市2019年4月27日閲覧。
  8. ^ 地蔵菩薩立像 - 藤井寺市2019年4月27日閲覧。

参考文献

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  • 国宝葛井寺千手観音(特別展図録)、大阪市立美術館、1995
  • 大阪市立美術館編・発行『国宝葛井寺千手観音』(特別展図録)、1995
  • 上田睦「FJT93-1区」『石川流域遺跡群発掘調査報告書』Ⅸ、1994
  • 新開義夫「FJT96-1区」『石川流域遺跡群発掘調査報告書』ⅩⅢ、1998
  • 上田睦「FJ91-3区」『石川流域遺跡群発掘調査報告書』ⅩⅣ、1999

外部リンク

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葛井寺
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