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博物学

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索?"博物学" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2019年9月)
1728年のCyclopaediaに掲載された自然史についての図版

博物学(はくぶつがく、Natural history, 場合によっては直訳的に:自然史)は、自然に存在するものについて研究する学問

広義には自然科学のすべて。狭義には動物植物鉱物岩石)など(博物学における「界」動物界植物界鉱物界の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。そのため、東アジアに博物学の伝統は存在しないが、慣例的・便宜的に「本草学」が博物学と同一視される[1]

歴史

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自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、テオフラストス『植物誌』、古代ローマではディオスコリデスの『薬物誌』、プリニウスの『博物誌』などがある。

東アジアの本草学は、伝統中国医学における医薬(漢方薬)、または錬丹術における不死の霊薬(仙丹)の原材料の研究として発達した。の時代に李時珍が書いた『本草綱目』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。

フランシス・ベーコンは自然史と自然哲学とを対比して、自然史は記憶により記述する分野であると規定、それに対し自然哲学は理性によって原因を探求する分野、とした(『学問の進歩』)。

ヨーロッパの大航海時代以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・ゴムコショウなど、経済的に有用な植物を確保するため、プラントハンターと呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、東南アジアフウチョウなどの標本がヨーロッパにもたらされた。

カール・リンネジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンはヨーロッパの博物学の発展を促した[2]。 リンネは、動物界植物界、鉱物界という自然三界の全ての種についての目録作りを自然史と見なした。ビュフォンは『自然史』において、自然三界を体系的に記述しようとした。

1755年にはカントが『天界の一般自然史と理論』を著し、自然史の名のもとに、太陽系の生成についても記述した。

地質学の領域などで、次第に歴史的な研究が活発化すると、こういった研究については、記述することに重点がある自然史とは区別して考えようとする動きが出てきた。歴史的な考察に力点がある分野を、カントは「自然考古学」とすることを1790年に提唱。だが定着せず、歴史的な分析も含めて、自然史と呼ばれつづけた。

19世紀になると、ラマルクトレヴィラヌスが「biology(生物学)」という学問名の領域を提案した。これは簡単に言えば、生物に関する自然哲学を意味していた。そして、これは自然史とは異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。自然史の領域は領域で、知識の集積が進み、もはやひとりの人間が自然三界の全部について専門的な研究を進めるのは困難な状況になっていった。そして、19世紀後半(主にチャールズ・ダーウィン以降)に入ると学問が細分化し、博物学は動物学植物学鉱物学地質学などに細分化された。そして「自然史」や「博物学」という言葉は、それらをまとめて指す総称ということになっていった。

近年では博物学、自然史という言葉は多義的に用いられており、例えば1958年日本学術会議によって用いられた表現「(博物学は)いわば、自然界の国勢調査」に見られる理解のしかたがある。動物分類学や植物分類学だけを指すためにこの言葉が用いられることもある。また、アマチュア的な生物研究を指すためにこの言葉が用いられることもある。

分類

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博物学の作業としては、自然物の採集とその同定が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその分類に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。

素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物-家畜」と「それ以外の動物-獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。

自然界にある多種多様のものを分類するために、さまざまな分類法が編み出された。たとえば、人間-高等動物-下等動物-植物-鉱物-火や空気という順に並んでいる「存在の階梯」という分類体系がある。これ以外にも、二分法による体系。三分法による体系など、さまざまな思弁的な分類法が考案された。これらについては荒俣宏著『目玉と脳の大冒険』に詳しい。

一方、生物の分類についてはリンネが形式的には二名法による学名を考案し、分類の基準としては類縁性を元にした自然分類の観点を持ち込んだ。これによって、その後生物における分類学が大きく進んだ。

その後、19世紀後期にダーウィンが『種の起源』を著して進化論を唱える。学会に進化論が認知されるまでにもだいぶ時間がかかったが、やがてそれは科学的な事実として受け入れられるようになった。進化論は必然的に、系統分類(もしくは分岐分類)の分類法を要請する。つまり、類縁性は進化的な近縁性に置き換えられた。生物においては、それ以外の分類法は捨て去られるか、あるいは系統分類に統合されることとなった。

また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。元素の発見、化合物の研究が進み、メンデレーエフ周期律表に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を化学物質として研究することが可能になった。

さらに化学と物理の発展した20世紀には、分子生物学によって、生物進化の分岐はゲノムの類似性として直接に検討されるようになった。鉱物には化学的組成と結晶構造による分類、岩石には組成・成因による分類が適用されるようになった。以上のような分析手段の獲得によって直接に一般化・体系化が可能になったことにより、博物学の手段であった収集と比較と記述という手法は、生物の種の同定などといった手続きには厳として残るものの(タイプ (分類学) の記事などを参照)、科学のメインストリームとしては博物学はその使命を終えつつある。

現在の博物学

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南方熊楠

現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。これは、直接フィールド(野山など)に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、牧野富太郎が行った植物研究や、南方熊楠が行った変形菌研究などがその例となる。

またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている(いわゆる市民科学)。たとえば昆虫などは、各地の昆虫採集好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「ナチュラリスト」と呼ばれている。

このように自然科学の基礎として欠かすことのできない手法であったが、現在では生物の分類は目視ではなく分子生物学による分類が主流になり、鉱物の分類も正確な元素同定が簡単に行えることから、現在では科学史のトピックとしての学習や教養科目、個人の趣味としての要素が強くなっている。かつては製薬会社などが、プラントハンターを詳しい調査が行われていない地域に派遣して植物などの収集に努めていたが、シミュレーションや分子合成手法の発達により大規模な調査は下火になっている。

天文学の分野でも、スーパーコンピュータを駆使する天体物理学や最先端の物理学による宇宙論など、理学系の分野においてはアマチュアの参加が難しいが、天体観測などアマチュア天文学と呼ばれる分野では、個人で購入できる望遠鏡の高性能化に伴い、彗星新星の発見が今でも盛んである。

日本と博物学

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本草学

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『大和本草』(国立科学博物館の展示)
虫豸帖(夏帖)増山雪斎東京国立博物館
岩崎灌園『本草図譜』のワサビ

日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。

江戸時代には、1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。この本草綱目を入手した徳川家康もこの年から本格的な本草研究を始めている[3]林羅山1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が活動した。1738年には稲生若水が『庶物類纂』を編纂した。小野蘭山らは採薬使として各地の自然物を採集した。藍水門下の平賀源内は、物産会を開いたり、石綿鉱山の殖産に携わったりした。

江戸時代中後期には、色鮮やかな図譜(図鑑博物画)の制作も盛んになった。すなわち、魚介類・鳥類・植物などを『~図譜』『~譜』と題した書物にまとめることが流行した。図譜の多くは美術的にも評価が高い[4]。図譜はまた、実在する動植物だけでなく河童などの妖怪を扱うことも多いため、妖怪研究の要素ももつ[5]。図譜は徳川吉宗増山正賢ら、各地の殿様たちの命令で作られることが多く、ときには殿様自身が制作に携わることもあった[6][7]

杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の野呂元丈がすでに行っていたが、これは一般に広まらなかった)。大槻玄沢司馬江漢がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学書の知識は、幕府が危険視するような思想性が薄く実用的な知識でもあったため、積極的に受容され、本草学にも影響を与えた。

江戸時代には、以上のような本草学だけでなく、古典園芸植物の研究や、『詩経』や『万葉集』に出てくる動植物の同定(名物学)も流行した。また、寺島良安が図解百科事典『和漢三才図会』を著したり、木内石亭佐藤中陵が石の分類体系を構築したり[8]木村蒹葭堂イッカクの角を研究したりした。

西洋の博物学の移入

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日本は島国であり、地形の起伏に富むため、固有種が多い。そのため大航海時代以降、ヨーロッパの学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。そのようななかで、わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは「出島の三学者」と呼ばれるケンペルツンベリーシーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。

この出島の三学者によって、西洋の博物学の手法が日本に紹介された。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。

幕末の黒船来航の際には、博物図鑑の大著『アメリカの鳥類』が幕府に献上された[9]開国後には、ロバート・フォーチュンら多くのプラントハンターが日本に訪れた。

明治に入ってから、伊藤圭介田中芳男お雇い外国人モースらによって、博物学が正式な形で日本に移入された。また、明治以降は上述のアマチュア博物学も盛んになった。とりわけ華族皇族が博物学に打ち込んだ[7]昭和天皇#生物学研究明仁#科学者として)。

日本博物学史の研究

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以上のような日本博物学史の詳細な研究は、1970年代頃から始まった[4]。初期の主な研究者として、上野益三木村陽二郎磯野直秀西村三郎荒俣宏らがいる。

博物学の語

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「博物学」の言葉は「Natural history」の訳語として作り出されたものである。英語での意味は、広義には政治学神学などに対立する自然科学一般を指し、狭義には上で説明した博物学のことを指す。この中間の意味として、「Natural philosophy」すなわち物理学と対立する学問を指すことがある。「自然」の内容がNatural history、形式がNatural philosophyとなるわけである。

Natural historyは、「博物誌」「自然史」「自然史学」などと訳されることもある。

自然史博物館

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現在、各国の博物館に「自然史博物館」がある。これは「Natural History Museum」の直訳である。この場合の「Natural history」の意味は広義の博物学、つまり自然科学一般を指す。

日本語では「Museum」を「博物館」と訳しているため、「Natural History Museum」を「博物学博物館」とするわけにいかず直訳して「自然史博物館」としたと思われる。ロンドン自然史博物館スミソニアン博物館の一部である国立自然史博物館カーネギー自然史博物館などがある。

近年では、日本国内でも「自然史博物館」と名づけられた「Natural History Museum」が増えてきている。

脚注

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  1. ^ 木場, 貴俊『怪異をつくる 日本近世怪異文化史』文学通信、2020年、100f頁。ISBN 978-4909658227 
  2. ^ 河原啓子『芸術受容の近代的パラダイム:日本における見る欲望と価値観の形成』美術年鑑社、2001年、30頁。 
  3. ^ 宮本義己「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)
  4. ^ a b 今橋 2017, p. 序章 「花鳥画」研究への新たな光.
  5. ^ 水虎考略 - 岩瀬文庫コレクション
  6. ^ 殿様の博物学 | コラム | 描かれた動物・植物”. www.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2020年10月7日閲覧。
  7. ^ a b 科学朝日編、磯野直秀ほか著『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年。 
  8. ^ 荻野, 慎諧『古生物学者、妖怪を掘る』NHK出版NHK出版新書〉、2018年。ISBN 978-4140885567 (第二章四節「奇石考『雲根志』『怪石志』を読む」)
  9. ^ 今橋 2017, p. 終章 海を渡った禽鳥帖―西欧と江戸時代博物図譜.

関連項目

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関連文献

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外部リンク

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