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秋山好古

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秋山あきやま 好古よしふる
渾名 日本騎兵の父
鼻信
生誕 1859年2月9日安政6年1月7日
日本伊予国松山(現・愛媛県松山市
死没 (1930-11-04) 1930年11月4日(71歳没)
日本における郵船商船規則の旗 日本東京府
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1879年 - 1923年
最終階級 陸軍大将
除隊後 北予中学校校長
墓所

青山霊園

鷲谷墓地(松山市)
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秋山 好古(あきやま よしふる、1859年2月9日安政6年1月7日〉 - 1930年昭和5年〉11月4日[1])は、日本陸軍軍人教育者。最終階級及び位階勲等功級陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。予備役編入後は郷里の愛媛県松山市で私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長を務めた[2]

陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞され、日本騎兵の父とも呼ばれている[3]

連合艦隊先任参謀として日本海海戦の勝利に貢献した秋山真之は実弟。

年譜

愛媛県松山市にある秋山好古、真之兄弟の生家(復元)
陸軍騎兵少佐時代の秋山
日露戦争前後の秋山
第13師団長官舎(新潟県上越市)
秋山好古の墓(青山霊園

人物像

フランス留学中の秋山
  • 風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。
  • 青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし、彼自身は「男子に美醜は無用」との価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなく、むしろ殊更に美醜を気にする考え方を嫌っていたといわれている。
  • 士官学校教授だった作家の内田百閒は「鈴木三重吉にそっくりの意地の悪そうな顔」とも記している。
  • 酒を非常に好み、当時東京大学予備門を目指していた真之と暮らしていた時は、「秋山兄弟は茶碗一つで飯を食っている」と噂されるほど貧乏であったにもかかわらず、1日に5合は飲んでいたといわれている。また、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていたが、それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいのことができ、部下たちを感嘆させた。酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかったが、過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患った。
  • 極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったという。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていたため、シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂うほどだった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にするように何度となく勧めたが、「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時、対処できない)」「風呂に入るためにこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

軍人としての秋山

この節の加筆が望まれています。
フランス特派使節ジョゼフ・ジョッフル(左)と談笑する秋山好古(1922年)

騎兵を選んだのは他の兵科より一年早く卒業でき、給金を受け取れるという理由だった。また、秋山は長身で手足も長く騎手として適性があった。[14]

日清戦争後、陸軍乗馬学校長となり、自らのフランス留学の経験を活かして騎兵研究に没頭した。その結果、騎兵以外の兵科との連携が不可欠との結論に至り、日露戦争では騎兵部隊に歩兵、砲兵、工兵などを随伴させる戦闘集団(秋山支隊と呼ばれた)を編成した。この工夫によりナポレオンを破る等、世界最強とも言われたコサック騎兵を相手に好戦することができた。

さらに黒溝台合戦では奥保鞏大将率いる第2軍に属し、日本軍最左翼を守備していた。しかし、この部隊は40km余りの戦線に対し、わずか8,000人程度の人員しか配置されていなかった。このため、拠点に塹壕を掘り穴ぐらに馬ごと潜り、機関銃などの兵器で攻撃する拠点防御方式を採用した。

騎兵は機動力を活用して敵の弱点に対し打撃を与える兵種であり、この戦術はその機動力を捨てるものであった。しかし、防御体制を何とか構築し、ロシア第2軍英語版を退却させることに成功した。

教育者としての秋山

晩年の秋山好古が校長を務めた私立北予中学校(現・愛媛県立松山北高等学校
松山北高校の校長室には、秋山直筆の「荒怠相誡」の書と騎馬像が飾られている

秋山が21世紀の現在もなお、その輝きを失っていないのは教育者としてである。すなわち秋山の功労、秋山の実践当時は先駆的な内容であったものが、その後80年近くを経て普遍的な基本要素となり、2024年現在の日本の高等学校教育において広く一般化されており[15]2020年以降の新たな日本の中等教育にもますます重要な基本要素として継承されていく[16]

そもそも秋山は子供好きで、学校の教師になるのが夢であった。明治9年(1876年)7月に官立大阪師範学校を卒業後、第三大学区十八中学区堺県河内国第五十八番小学校(現在の寝屋川市立南小学校)に勤務したが、初期の官立師範学校卒業教員であることからすぐに抜擢され、愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)勤務となり、日本の義務教育の開拓と普及の分野で将来を託望される人物となっている。(日本の官立師範学校は、まずは各府県に教員養成学校を作るための人材を育成する機関(指導的教員養成機関)として明治5年から7年にかけて各大学区に設置され、全国府県がその卒業生を指導的教員として招聘するものとされた。秋山は愛知県に招聘された[17]。)しかし薄給のため、特に弟、真之の生活費と学費を将来的にも工面できないことから、夢を叶えた直後にあきらめ、職業軍人に転向せざるを得なかった[注 2]いきさつがある[18][6]

清国駐屯軍司令官として好古が帰国の際に、天津の領事館で送別会が開かれた。その席上、居留民を代表して伊集院彦吉総領事が金時計を送るも、「せっかくのご厚意なので現金で頂きたい」と言ったので、金品に無頓着である好古の意外な発言に驚いたが、本人の意思ということで現金の贈呈を決めた。すると好古は「只今頂いた現金はそのまま日本居留民小学校に寄付しますので、その教育資金としてください」と言った。[19]

陸軍でも、教育に携わり、陸軍騎兵実施学校長など後進に育成に貢献して、最終的に陸軍三長官の内の教育総監という地位についている。

すなわち秋山は2024年現在の学校区分で小・中学校の教員経験者であり、旧制中学校、2024年現在の学校区分で、高等学校への赴任は初めてであった。秋山の北予中学校校長就任はその前年に郷里の友人、井上要から「学校長不在になることになってしまい困っている。名前だけでもかしてはくれないか。」と請われたことからであるが、これに対して秋山は実際、「俺は中学校のことは何も知らんが、他に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少し地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立てばなんでも奉職する。」と快諾、さらに井上要の、たまには学校に出てきて生徒たちと遊んでやってほしいの言に対し、ところで名前だけとはいかがなものか。中身がなければ(実際に学校に校長がいなければ)駄目であると単身、東京を離れて就任した。以降、辞任まで1日も欠勤せず、生家から登校したという[20][6]

秋山にとっての校長就任、校長職は元帥に勝る人生の最高位であった。校長に就任した秋山と植岡寛雄少将が語っていたとき、植岡が無遠慮に「閣下はよく禿げましたね。どうしてそんなに禿げたのですか。」と尋ねたところ、秋山は怒ることもなく「これか。俺が今の地位(校長職)を得るまでの苦労は並大抵のことではなかった。その間に俺は何千回、何万回となく頭を下げてきたから、とうとうこのように禿げてしまった。」と答えている。秋山は「男子にとって必要なことは、若いころに何をしようかということであり、老いては何をしたかということである」を信条とし、予備役陸軍大将、それも三長官まで上った者としては例のない格下人事となった北予中学校奉職は、実は秋山自身の人生の総括を意味する、すなわち後世に結果を遺す重要なことであった[6]

秋山の本質は穏やかな性格であり、軍人時代の部下、犠牲者の霊を生涯に渡って弔い続け、自らの功績を努めて隠した。中学校長就任後、生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」などと頼まれても「そんな昔のことを訊いて何になるのか。と一蹴した。当時、秋山の写真を生徒に販売しようとする動きがあった際には断固として止めさせ、武勲を披露することは無かった。また、生徒が落ちついて学ぶことのできる環境を整えることに尽力している[21][6]

秋山は当時、先進的すぎて解らないの意味も含む「超教育家」とも評され[22]、このことが秋山の軍人としての実績と相まって教育者としての秋山の先駆的業績の本質を20世紀の終わりまで埋もれさせることにもなった。当時、中学校の校長職はいわゆる名誉職であり[注 3]、秋山のように正規に教員の資格を有し、教育現場での経験のある者が校長に就任し、毎日登校して直接に生徒に接することだけでも珍しく、加えて教育学的に研究した生徒教授まで実践というのは皆無に等しい状態であり、秋山は異例中の異例であったためである[注 4][6]

秋山は社会的集団教育(普通学校教育)の目的を、21世紀の現在にも通じる「個人の確立(独立)による「国家の確立(独立)」「個人の生活安定による個人の確立」「個人の生活安定のための適正の見出しと育成」と考えており、実学、勤労を重視し、生徒個人の人格形成、そのための個性・適性を見出して育てることに徹し、その実践として毎日、早朝から校門に立ち、登校してくる生徒ひとりひとりに挨拶をする、よく生徒を誉め、誉めるのと同時に、字をきれいに書きなさいといったことなどを丁寧に指導する、いつも微笑みをたたえて生徒の様子を眺めている校長であった。そして生徒に「もう私は老いている。私が死んでしまった時には、私の屍を踏み越えて未来に進みなさい」との訓示をする校長であった[6][22]

一方、秋山は生徒、教職員の不祥事は全て校長の責任に帰するものとし、在任中に何度も引責辞職願を理事会に提出、都度、驚かれて慰留されている。当時の中学校では全国的に、生徒のみならず教員も、遅刻、無断欠勤は普通であり[注 5]、秋山はこの学校側の計画性のなさに中等教育の諸問題の根本がある、学生が独立している(自我が完成されている)ことを前提とした高等教育と、独立途上にある(自我の形成途上である)生徒を相手にする中等教育は異なるものであるとし、遅刻・欠勤した教員の担当授業を自ら代行し、定刻開始、定刻終了、欠課なしとしてみせた。すなわちこれは2024年現在言われているところの生徒の学習権保証のひとつである。しかし秋山は当該教員を叱責、処分することはなく、一身に自らの責任として自らを処分したことから、北予中学校では教職員の勤務態度が大きく変わり、遅刻・無断欠勤をする者がおよそいなくなり、教員は自主的によく勉強し、各々が学習指導計画を立てて実行するようになった。この実践と成果は全国に新聞報道され、全国の中学校、女学校などの中等教育機関で、授業の定刻開始、定刻終了、欠課なしが実施されるようになり、併せて中等教育に携わる教員の自主性とその責任範囲について明確化させるものとなった[22][6]

そして最晩年の世界恐慌の際には、国際協調の観念を涵養する大切さを生徒たちに説き、デンマークはもとは貧しい国であったが、国民の農地改良によって豊かになった例を紹介し、日本も国民の勤労さえあれば必ず大丈夫であると説き続けたことなどである[22][6]

なお秋山のこれらの教育方針と実践は現在の愛媛県立松山北高等学校の校長室に秋山直筆の「荒怠相誡」(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)としてなお掲げられ、同校校訓のひとつ「心」と一致し、2024年現在の同校教育方針である「自立・進取・敬愛を重んじ、豊かな人間性と社会性を養うとともに、個性や能力を生かす教育の充実を目指し、平和な国際社会に貢献できる国際感覚豊かな人間を育成する。」とも一致している[23]

秋山は書に長けており、揮毫を頼まれることが多かった。松山市の近辺には好古の揮毫した石碑等が多数置かれている。愛媛県伊予市の伊予港(郡中港)にある藤谷元郡中町長の胸像の碑文の原本は、秋山によって認められたものである[6]

逸話

秋山と裕仁親王1921年
  • 弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。おっつけうちが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな」と両親へ懇願した[24]
  • フランス留学中、腸チフスに罹るが、医師の診察を受けずに自力で治癒した。しかし一時的に頭髪が全て抜け、禿げ頭になったという逸話がある(頭髪は後に復活)
  • 非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。食事の際のおかずは沢庵漬けのみ。真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす、足袋を履かせない、他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない、千切れた下駄の鼻緒を直そうとしている真之を見て「暇があるなら裸足で行け」と叱責したなど、私生活においては簡素な行動を重んじたと伝えられる。
  • 欲の無い人物として知られ、凱旋した際に給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。
  • 第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。
  • フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。
  • 陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
  • 福沢諭吉を尊敬し、自分の子供はみんな慶應義塾に入れた。
  • 晩婚主義者で、36歳で結婚した時も「結婚が早すぎた」と漏らすほどであった。結婚に踏み切ったのは、女中による盗難事件を興して母に苦労をかけたことがきっかけであった。婚約者に選んだのは12歳年下の旧旗本の佐久間家三女の多美で、母親が一番気に入った女性であった。元々、上京して他の時に佐久間家に居候していた好古は、多美に「狆」とあだ名を付けるなど面識があった。[25]

系譜

秋山氏
遡れば河野氏に繋がる。江戸時代、代々松山藩
宗清━信久━久良━久軏━軏久━久徴━久敬┳則久
                    ┣正牟(岡家養子)
                    ┣好古(長兄・則久より家督相続)
                    ┣道一(西原家養子)
                    ┗眞之(真之)

家族

  • 妻:佐久間多美…母貞が気に入る女性ということで選んだとおり、嫁姑仲が実の親子のように良好であった。
  • 子(多美との間に二男五女)
    • 長男・信好
    • 長女・ヨシ 塚原嘉一郞夫人
    • 次女・ケン子 土居利三郞夫人
    • 三女・勝子 足立壮夫人
    • 四女・治子 米田富士雄夫人
    • 五女・保子・夭折
    • 二男・次郞

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

子孫

好古の曾孫である秋山純一は陸上自衛隊三等陸佐であり、第7師団第72戦車連隊第1中隊長を経て[49][50]、現在防衛大学校勤務である(2012年7月26日現在)[51]

著作

  • 『本邦騎兵用兵論』

登場作品

秋山好古を演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ 大阪師範学校を卒業して教員となった秋山は、愛知県立名古屋師範学校付属小学校訓導として、わずか19歳で月給30円を給されていた[3]が、それから1年経たないうちに教職を辞して陸士に入校し、陸軍将校に転身した[3]。秋山が教育者から軍人に転じた理由や動機は不詳[3]
  2. ^ 秋山は修業年限2年の師範学校を進級試験制度を使って1年で卒業していることから、本当に薄給のために教師を辞したのか、それともそもそも軍人になるために官立師範学校進学者と卒業者に対する特典(教職に就いて所定年数奉職するか、陸軍士官学校などに進学するかのどちらかで学費全免除とされた。)を求めて官立師範学校に進んだだけであるのかが謎とされ、長年にわたって後者であろうと考えられ、軍人としての評価のみ、北予中学校への赴任も退役職業軍人のいわゆる天下りとして考えられ(軍事教練等が義務付けられていた当時の中学校(男子校)の校長職は退役職業軍人に頼ることが多かったため。)、その教育実践内容と矛盾するところが多かったが(秋山は21世紀現在にも通用する普通教育を考案して実践しており、当時としてはいわゆる反政府的な内容が多く、あまりにも退役職業軍人らしくなかった。)、当時、町村との個別直接契約(2018年現在でのいわゆる非正規雇用)のために、進学希望の師範学校卒業者が選ばなかった一般の小学校、すなわち現在の寝屋川市立南小学校を選んでいた、愛知県からの招聘に応じ、現在の愛知教育大学附属名古屋小学校に赴任していたことから、明確に当初から教員志望であり、教職に就くことによって学費免除を受けようとしたことがわかり、教育者としても学術的研究と評価の対象になり、これによって新たに多くの史料が発見された。なお、20歳から受検資格を得られるとされていた官立師範学校になぜ16歳にして入学できたのかなど、2024年現在も不明な点が多く残されている。
  3. ^ ゆえに井上要は秋山に名前だけでもと請っている。なお2018年現在でも制度上、これは残されており、高等学校長は必ずしも教育職員免許状所有者でなくてもよく、学校常駐の義務もない。
  4. ^ その他、秋山は校長在任中も将軍として常に新聞社などの取材対象であり、特にそれらによる記録は明らかに誇張や捏造と考えられるところが多く、2018年現在も新たな史料の発掘作業が続けられている。
  5. ^ 当時の旧制中学校の教員は旧制大学修了者、高等師範学校修了者、無資格者などによる構成で、大学のスタイル(高等教育のスタイル)の多くがそのまま中学校に持ち込まれていたためである。秋山も、高等教育は学問、自由闊達なものでなければならないが、中等教育はまだ学問とはならないとして指摘している。

出典

  1. ^ 秋山好古 | 近代日本人の肖像
  2. ^ a b c 半藤 2013, 位置No. 3820-3837, 陸軍大将略歴[大正期] - 秋山好古(旧3)
  3. ^ a b c d e 半藤 2013, 位置No. 860-1058, 第一章 世界大戦と日独戦争-秋山好古 日本騎兵の父
  4. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。
  5. ^ 100文銭として発行され、明治維新後は新貨8厘に通用した。『新訂 貨幣手帳』/株式会社ボナンザ/1982年→同書・pp150-151およびp178による。
  6. ^ a b c d e f g h i j 「愛媛の偉人たち」愛媛県生涯学習センター 愛媛人物博物館 秋山好古の展示。
  7. ^ 『官報』第3818号 明治29年3月25日 敍任及辭令
  8. ^ 編成としては旅団であったが、実際は歩兵砲兵を編入していたので戦闘単位としては「支隊」であり秋山支隊と言った。編成は支隊主力、三岳支隊、豊辺支隊、種田支隊の4個支隊からなる。
  9. ^ 『官報』第3199号、大正12年4月2日。
  10. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 秋山好古。
  11. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 秋山好古、373-377頁
  12. ^ 坂の上の雲 校長の六年間
  13. ^ 坂の上の雲を見上げて
  14. ^ イラスト図解 日清・日露戦争 (イラスト図解シリーズ) 111P
  15. ^ 学習指導要領「生きる力」現行学習指導要領の基本的な考え方 文部科学省。2018年1月閲覧。
  16. ^ 学習指導要領「生きる力」次期学習指導要領 文部科学省。2018年1月閲覧。この中で後述の秋山の実践は2018年現在実施されている現行学習指導要領よりもさらに明確に明文化された
  17. ^ 「我が国の学校教育制度の歴史について」平成24年1月 国立教育政策研究所。
  18. ^ 北予中学・松山高商楽屋ばなし』「松山に於ける私人秋山翁」 井上要著 1933年 国立国会図書館所蔵。
  19. ^ 秋山好古と秋山真之: 日露戦争を勝利に導いた兄弟
  20. ^ 北予中学・松山高商楽屋ばなし』「俄かに光る北予中学」「松山に於ける私人秋山翁」井上要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
  21. ^ 北予中学・松山高商楽屋ばなし』「無言の教、無為の化」「徹底せる私学観」「松山に於ける私人秋山翁」井上要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
  22. ^ a b c d 北予中学・松山高商楽屋ばなし』「超教育家の識見」井上要 著 1933年 国立国会図書館所蔵。
  23. ^ 愛媛県立松山北高等学校公式サイト
  24. ^ 秋山好古の言葉”. 秋山兄弟生誕地. 公益財団法人常盤同郷会. 2017年8月19日閲覧。
  25. ^ https://serai.jp/living/380212
  26. ^ a b c d e f g h i j k 陸軍大将秋山好古外二名特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113166400 
  27. ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
  28. ^ 『官報』第2858号「叙任及辞令」1893年1月11日。
  29. ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
  30. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  31. ^ 『官報』第5790号「叙任及辞令」1902年10月21日。
  32. ^ 『官報』第7313号「叙任及辞令」1907年11月12日。
  33. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  34. ^ 『官報』第1048号「叙任及辞令」1916年2月1日。
  35. ^ 『官報』第1979号「叙任及辞令」1919年3月11日。
  36. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  37. ^ 『官報』第3578号、明治28年6月5日。
  38. ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
  39. ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
  40. ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
  41. ^ 『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
  42. ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
  43. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  44. ^ 『官報』第402号 大正2年11月29日 敍任及辭令
  45. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  46. ^ 『官報』第1898号 大正7年11月30日 敍任及辭令
  47. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
  48. ^ 『官報』第1157号 昭和15年11月6日 敍任及辭令
  49. ^ 中隊長は秋山好古のひ孫 北恵庭駐屯地に着任:苫小牧民報社
  50. ^ 秋山好古のひ孫は陸自指揮官 研究重ね「信頼されたい」 - 47NEWS
  51. ^ 秋山兄弟生誕地 好古の曾孫・秋山純一氏がご来館

参考文献

関連項目

外部リンク

軍職
先代
平佐是澄
陸軍乗馬学校・同騎兵実施学校校長
1998年に改称
第2代:1896年8月15日 - 1900年7月17日
次代
渋谷在明
先代
橋本譲二
陸軍獣医学校校長
第5代:1899年10月28日 - 1901年2月23日
次代
渋谷在明
先代
山根武亮
清国駐屯軍司令官
第3代:1901年10月25日 - 1903年4月2日
次代
仙波太郎
先代
渋谷在明
騎兵第1旅団長
第2代:1903年4月2日 - 1906年2月9日
次代
本多道純
先代
長岡外史
第13師団長
1913年1月15日 - 1915年3月15日
次代
安藤巌水
先代
山根武亮
近衛師団長
第13代:1915年2月15日 - 1916年8月18日
次代
仁田原重行
先代
井口省吾
朝鮮駐剳軍司令官
第5代:1916年8月18日 - 1917年8月6日
次代
松川敏胤
先代
大谷喜久蔵
教育総監
第10代:1920年12月28日 - 1923年3月17日
次代
大庭二郎
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秋山好古
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