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Osho

このページの名前に関して「オショー・ラジニーシ」への改名提案されています。議論はこのページのノートを参照してください。(2024年7月)
Osho
生誕 チャンドラ・モハン・ジャイン
1931年12月11日
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国
ボーパール藩王国
死没 (1990-01-19) 1990年1月19日(58歳没)
インドの旗 インド・プネー
国籍 インドの旗 インド
職業 インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動の創始者[2]
活動期間  1972年~1990年
公式サイト https://www.osho.com/ja
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Osho[† 1]ラジニーシアーチャリヤ・ラジニーシ(Acharya Rajneesh)[3]バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh)[† 2][2](誕生時 チャンドラ・モハン・ジャイン(Chandra Mohan Jain)、晩年 Osho)1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドのゴッドマン[1]、哲学者、神秘主義者、オショー=ラジニーシ運動(ORM:Osho Rajneesh Movement、ラジニーシ運動)[† 3]の創始者[2][4][5]

概要

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東洋の神秘主義・個々人の勤行・性的自由を折衷的に説いたインドのスピリチュアル指導者である[6]新宗教運動の指導者として生涯物議を醸した人物で、組織化された宗教を否定し[7][2][8]、霊的経験はいかなる宗教教義の体系にもまとめ上げることはできないと主張した[6]グルとして、瞑想を提唱し、人間の霊的な面(神)を体験できるよう設計したダイナミック瞑想英語版と呼ばれる独自の形式を教えた[6]。伝統的な禁欲的な修行を否定し、サンニヤーサ英語版(放棄)の考えを禁欲主義ではなく無執着の観点から再解釈し、信奉者たちに、この世に執着することなくこの世を完全に生きることを提唱した[6]。性愛に対してより革新的な態度を表明したことで[9]、1960年代後半にインドで論争を巻き起こし、「セックス・グル」として知られるようになった[2][10][11]

インドで活動する様々な宗教者を訪ねては洞察を得て、ジャバルプール大学で哲学を学び、1960年に同大学で教えるようになり、教授になった[12][6]。1953年に21歳で悟り、スピリチュアルな目覚め(宗教的経験英語版)をしたとされ[6][13][† 4]、学問の世界で数年間活動した後、1966年にジャバルプール大学の職を辞め、インド中を旅し、インド各地で講話を始め[12]、主流宗教の正統性[2][15][16][9]、主流の政治イデオロギーやマハトマ・ガンディーの正統性を声高に批判する人物として知られるようになった[17][18][19]ジャイナ教ヒンドゥー教、(ユダヤ教の)ハシディズムタントラ道教スーフィズムキリスト教仏教などの主要な伝統宗教、多様な東洋や西洋の神秘家、ウパニシャッドシーク教等の聖典について語り[20][21]、すべての組織宗教の形骸化を痛烈に攻撃し、宗教的戒律は人間を鋳型にはめてしまうものだと非難した[12]。彼は第二次世界大戦後、独立後の20世紀のインドにおいて、最も論争の的になった人物であると言われる[22]

1970年にムンバイに滞在し、「ネオ・サニヤシン」として知られる彼の信奉者達に教えるようになった[2]。この時期、ラジニーシは自身のスピリチュアルな教えを広げ、世界中の宗教的伝統、神秘主義者、バクティ詩人、哲学者たちの著作について幅広くコメントした。1974年にプネーに移転してアシュラム(道場)を設立し、ここで、増加する欧米人の信奉者達に、ヒューマン・ポテンシャル運動発の方法を取り入れた多様な個人セラピーやグループ・セラピー、ニューエイジのヒーリングの多様なプログラムが提供された[23][24][6][25]。西洋の先進的なセラピーと東洋の修行法を並列的に扱って統合し、数多くのセラピーや瞑想法を創始し、精神世界のカリスマ的存在として多くの欧米人、特に先進資本主義国の若者を引き付けた[26][27][28]。運動の中心はカウンターカルチャーの影響を受けた西洋人になり、以降オショー=ラジニーシ運動はニューエイジの文脈で見られている[28]。欧米人の参加者が増えたことで、彼らがもたらしたヒッピー文化を色濃く反映していった[28]。アシュラムでは悟りを目指してかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーは全裸で行われ、グループ・セラピーでは暴力が許されることもあり、セックスも行われていた[29]。こうしたグループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は、オショー=ラジニーシ運動の評判を悪化させた[30]。著しいメンバーの増加でOshoは少数の弟子以外と個人的に接することが難しくなり、アシュラムの制度化が加速し、健康状態の悪化もあり、1970年代中頃から組織運営から徐々に身を引き、数人の西洋人サニヤシンが中心となって運営された[31]。Oshoの言動やアシュラムでのラディカルで強烈な実験によりインド社会との軋轢は激しくなっていき、1970年代後半になると、モラルジー・デーサーイー首相のジャナタ党政権と運動との間には緊張が生じ、アシュラムの発展は抑制され、推定500万ドルの追徴課税が行われた[32][28]

1981年、オショー=ラジニーシ運動の活動の中心はアメリカになり、Oshoらはオレゴン州ワスコ郡アンテロープ英語版近郊に移住し、廃墟だった牧場に新都市ラジニーシプーラム英語版建設を計画した[6]。1980年代からは、グループ・セラピーにおけるヌード、セックス、暴力は禁止されるようになった[30]。元々運動は緩やかなネットワークだったが、Osho自身もその流れを容認する形で、組織の中央集権化と制度化の流れが進み、確固としたヒエラルキーを持つ宗教組織に変わっていった[33][34]。オレゴン州のコミューンは次第に全体主義的な特徴を持つようになり、永住者は全ての財産をコミューンに寄付し、長期滞在者はコミューンにお金を払い、各種の労働に励み、近隣住民と日常的交流のない孤立した生活を送った[33]。Oshoの急進的な世界観だけでなく、メンバーが周辺に住民に対し意識変容を目指すことを自負して優越的な態度で接したこと、アンテロープの町を実質的に乗っ取りラジニーシプーラム市としたこと、ラジニーシプーラム市を正式な市として認可を得ようと全米から1500名のホームレスを集め選挙工作をしたこと等から、地元住民とのトラブルが絶えなかった[35]。オレゴン州のコミューンの外でも中央集権化と標準化が進められ、各国に大きなコミューンが作られ、オレゴンのスタッフからラジニーシプーラムへの寄付が強く求められた[35]。コミューンに参加せず社会生活を送っていた者は教団ヒエラルキーの下位に置かれ、「明け渡しが足りない」と批判され、世界中で半数近くがこの時期に運動から離脱している[35]

オショー=ラジニーシ運動はワスコ郡の住民や州政府と対立し、アシュラムの建設や継続的な開発に関する法廷闘争が相次いで拡大は阻害された。Oshoの側近の弟子達は、ワスコ郡の選挙結果を左右することを意図した1984年のサルモネラ菌散布による約750名(うち45名が入院)が被害にあった集団食中毒(バイオテロ)攻撃(ラジニーシ事件)、チャールズ・H・ターナー英語版連邦弁護士に対する1985年の暗殺計画(未遂)英語版、Osho専属医師の殺人未遂、Oshoの住居の盗聴、公共施設の放火、麻薬の密輸などの数々の犯罪行為を行い、Oshoは1985年に地元当局に彼の個人秘書マー・アナンド・シーラ英語版と彼女の側近に対する捜査を求め、その後、シーラを含むアシュラムの弟子数名に有罪判決が下された[36][6]。同年Oshoは、起訴された容疑は認めないが有罪を認める答弁を行う司法取引アルフォード・プリー英語版に基づき、別の移民詐欺の容疑でアメリカから国外に追放された[37][38][39][6][40]。その後、21カ国が彼の入国を拒否した[41]

最終的に1986年にインドのムンバイに戻り、弟子の家に6ヶ月間滞在し講話を再開した後、1987年1月にプネーに戻り、アシュラムを復活させた[42][43]仏陀等のインドの宗教家たち、老子荘子達磨から臨済らの禅僧等の宗教家の文献を取り上げて語ってきたが、晩年は禅に関する講話を集中的に行った[21]。インド帰国後は、サニヤシンのグルへの無条件の服従や全面的コミットメントの傾向を解消し、宗教の脱制度化を進める方向に転換していき、オショー=ラジニーシ運動のセクト的な特徴は徐々に薄れ、アメリカ時代の中央集権的な体制・大規模な国際的コミューンから、小規模なグループが各国に点在し各瞑想センターが独自に展開する、初期のインド時代と似た状況に変わっていった[44]。サニヤシンたちは緩やかなネットワークを重視し、組織的な動きを警戒するようになった[44]

プネーのアシュラムで1990年に死去。死後弟子たちは、彼が政府の陰謀の犠牲者だという確信を持ち、その無実を主張し、運動を継続した[6]

プネーのアシュラムは現在、OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートとして知られ[45]、関連する知的財産権はすべて、OSHO インターナショナル財団(旧ラジニーシ・インターナショナル財団)が管理している[46][47]。彼の教えは欧米のニューエイジの思想に影響を与えており[48][49]、その人気は彼の死後から2005年までの間に高まったと言われる[50][51]。21世紀初頭時点で、60か国以上に約750のセンターがあった[6]

呼称の変遷

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幼名はラジニーシ・チャンドラ・モハンといい、「闇を照らす満月の王者」を意味する[本人 1]

グルとして活動を始めた当初はアーチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ先生)と呼ばれていたが、1971年に名前を変え、「祝福された者」あるいは「神」を意味する「バグワン」を新しい敬称として選んだ[52]。以降バグワン・シュリ・ラジニーシ(Bhagwan Shree Rajneesh、Shreeは「氏」の意味)として知られた[52]。インドに帰国以降、サニヤシン達に対し、自らが「友人」であり一宗教のリーダーではないと繰り返すようになり、最晩年の1989年1月に「バグワン」の敬称を落とし、9月には名前の「ラジニーシ」も落とし、日本語の「和尚」から取った「Osho」と呼ばれるようになった[44](しばらくの間は Oshoラジニーシ(和尚ラジニーシ)として知られた[本人 1])。

宗教学者の伊藤雅之は、当然ながら「光明を得た」マスターとサニヤシンに一般的な意味での友人関係が成立したわけではないが、最晩年の改名には、インド帰国後にアシュラムの脱制度化を進める中、権威主義的な意味合いや組織的な上下関係が含まれないようにという意図があったと説明している[44]

来歴

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この節には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。 出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2024年6月) 中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2024年6月) 広告・宣伝活動的であり、中立的な観点で書き直す必要があります。(2024年6月)

初期

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Oshoは、1931年12月11日に中央インドのマディア・プラデシュ州でジャイナ教の商人の長男として生まれた[14]。ジャバプール大学では哲学を専攻した[53]。大学生だった1953年3月21日に、人間の意識の最終的な段階に達し、光明を得たという[53]。その後、ジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演し、「すべての行為や感情を抑圧することなく、ありのままの自分を受け入れ、瞬間、瞬間をトータルに覚醒することが必要である」と説き、宗教批判とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると主張した[53]。66年には大学を辞職し,すべての時間をインド各地での講演に注ぐようになる[14]

ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画

1970年代より講演者からマスターへと移行し、弟子を受け入れるようになった[53]。正式にイニシエーションを授けるようになる[52]。イニシエーションを受けた人たちは、新しいサンスクリット語の名前が授けられ、また弟子の条件として伝統的なオレンジ色のローブ(のちに赤系統の服となる)とマラを絶えず身につけるようになった[52]。また呼吸への働きかけや身体の自由な動き、発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、71年からの4年間は定期的に公共施設で瞑想キャンプを開いている[53]

インド 第1期プネー

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ムンバイでの一時期を経て、1972年にバグワン・シュリ・ラジニーシと改名、その直後にプネーにアシュラムを設立し、拠点に定めた[26]。1971年、ムンバイの南東130キロに位置する高原都市プネーの郊外に2万平方メートルの敷地をもつアシュラムが開かれた[52]。この頃から、サニヤシンのなかで欧米人が圧倒的な割合を占めるようになっていく[52]。国外からの25万人ものメンバー(うち3000人ほどが定住)を集め、Oshoの周辺にはコミューン的な状況が生まれた[26]。当時は、インドを旅していた欧米のヒッピーや精神世界の探究者たちが旅の途上でOshoと出会い、惹かれていった[52]。それに続いて、ヒューマン・ポテンシャル運動にかかわっていた相当数のセラピストたちが、スピリチュアリティの新たな発展の可能性を求めてOshoのもとに集まりだした[52]。彼のもとを訪れるセラピストの数が増えるにつれて、今度は新しい心理学の流れに興味を持つ人がたちがアシュラムを訪れるようになった[31]

プネーにて、1977年

1975年に日本でも講話録ニューズレターが発行され[54]、日本でも知られるようになり、1977年に最初の邦訳講話録である『存在の詩(うた)』が精神世界系の出版社めるくまーるより出版された。本書は1997年までの20年間だけでも、4万9千部売れた[55]という。なお翻訳家・著作家の吉福伸逸は、Oshoの思想は当初アメリカなどより日本の方が先行して広まっていたと述べており[56][要ページ番号]、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるOshoの引用の少なさを説明している、と考えている[† 5]吉福伸逸は、Oshoのグループは、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメント、ホリステッィク・ヘルス・ムーブメントに関連した宗教のなかで、唯一、もっともニューエイジ的な感性に近いグループであった、あれだけの実験を提供してくれたグループはどこにもなく、初期のエサレン協会のような活気が、プネーのOshoアシュラムにはあった、と述べている[57]

Oshoのラディカルな思想や実験的なアシュラムは、多くの人々、とりわけ先進資本主義国からの若者を惹きつけたが、インド社会との摩擦は激化していった[28]

アメリカ オレゴン州ラジニーシプーラム

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1980年代

1981年の春、Oshoは長年患った喘息と糖尿病のため、講話を含む公共の場での発言を一切しなくなった[28]。アシュラムの実権は、Oshoの個人秘書であったインド人女性マ・アナンド・シーラに委ねられることになった[28]。シーラを中心とする運営スタッフは、中央オレゴンに6万4000エーカー(東京23区の面積に相当)の荒涼とした土地を購入し、81年8月にはOshoをそこへ招待した[33]。サニヤシンたちは、その中にラジニーシプーラム市を建設した[33]

ラジニーシプーラムの入り口
Oshoに奉げられた石碑

警察活動を含む自治体の様々な行政活動は、コーディネーターによって実質的に管理・運営されていた[58]。ラジニーシプーラム市の市長はコミューン事務長、助役・出納長はコミューンの出納係、市議会議員は5名すべてサニヤシンであった[58]

Oshoが運転するロールス・ロイス
ラジニーシプーラムに作られた空港。「エア・ラジニーシ」と書かれた自家用ジェット。
「ラジニーシ・ブッダフィールド・トランスポート」と書かれた黄色いバスの数々
ラジニーシプーラム(1982年)
ラジニーシプーラムでの祭りの様子(1983年)
ラジニーシプーラムに建設されたゲストハウス

ラジニーシプーラム最盛期、弟子たちと接触の機会を持つために、Oshoはロールス・ロイスに乗って、視察の名目でラジニーシプーラム内を一周するようになった。Oshoは、「96台のロールス・ロイスが必要な理由などまったくない。アメリカ全体に、あらゆる超大金持ちのあいだに嫉妬をかきたて、もし彼らに十分な知性があったなら、私の敵になるよりはむしろ、私のところに来て自分の嫉妬を落とす方法を見つけようとしただろう。嫉妬こそが彼らの問題だ」と語った[関係者 1]

約2000人のサニヤシンが、近隣の人々と日常的交流のない孤立した生活を送っていたが、彼らは1)永住者、2)長期滞在者、3)訪問者のカテゴリーに分類された[14]伊藤雅之は、Osho自身も閉鎖性・統制性が強まる流れを半ば容認する形で、運動が展開していったと述べている[59]

「ラジニーシ市」の看板(1985年)

1982年3月に一部の弟子が隣接するアンテロープ町に移り、シーラたちによる乗っ取りを恐れた町民たちは町を廃止してワスコ郡の直轄地にしようと住民投票を行ったが、すでに弟子たちの数が元々の住民の数を上回ってしまっており、乗っ取りを防ぐことはできなかった[60]。町名は「ラジニーシ市」に変わり、ラジニーシプーラム市の姉妹都市とされ、首長・教育委員長などの要職が次々に弟子たちに変わり、町全体で徹底した「ラジニーシ化」が進められた[60]。コミューンの活動は注目を集めて新聞やテレビで大きく取り上げられ、世論の反発は激しさを増した。ニュースが全米で放送され、オレゴン州政府の対応に注目が集まり、しだいに州政府が対応せざるを得ない状況になっていった[61]。アメリカの憲法では、「宗教団体が自治体の形態をとる」ことは認められず、このような自治体に交付税、贈与税の交付を含む財政上の助成や補助を行うことは、納税者にとって信徒でもないのに献金を強要されるに等しく、違憲である[62]。1984年3月、オレゴン州法務長官デイビット・B・フローンマイヤー(David B. Frohnmayer)は州を代表し、ラジニーシプーラム市及び同市の公務員及び住民等を被告とし、Oshoの宗教的基盤と市の運営の関係がアメリカ合衆国憲法修正第1条の国教樹立の禁止条例、政教分離原則に反しており、ラジニーシプーラム市の設立は無効であるとして訴えた[63][64][65][61]

1984年10月、3年半の沈黙を終えOsho は再び講話を行うようになった[関係者 2][要ページ番号]。レーガンやキリスト教原理主義者の権力と威信にとって、Oshoの存在は脅威的だった[関係者 2][要ページ番号]。なぜなら、Oshoは彼らの権威の基盤を執拗に攻撃したからだ[関係者 2][要ページ番号]。Oshoは聖職者と政治家たちを「魂のマフィア」と呼び、彼らは一般の人々を搾取するために深い共謀関係にあると言った[関係者 2][要ページ番号]

1985年9月になると、シーラと10数人のスタッフが突然コミューンを去り、FBIが介入した捜査の結果、彼女らが行ってきたコミューン内外での不法行為が明らかになる[14]。そのなかには、Oshoとその世話人の部屋の盗聴、資産5500万ドルの横領、Oshoの主治医デバラジへのヒ素による殺人未遂、近隣レストランでの有害物質サルモネラ菌の混入とそれによる住民約750名の食中毒(うち45名が入院)、公共施設の放火などが含まれていた[14]。シーラとその仲間は逃亡先の旧西ドイツで逮捕され、カリフォルニア州の刑務所に服役した[14]。この事件は近年のアメリカ史上最大の生物兵器による攻撃だと言われる[66]

州軍がコミューンの周囲で待機状態にあり、コミューンに侵攻しようとしてたことをOshoは勘づき、5000人のサニヤシンの流血の惨事を避けるためにシャーロットへ向かった[関係者 2][要ページ番号]。インド脱出同様、同行する側近以外の弟子たちには何も知らされなかった[67]。燃料補給に立ち寄ったノース・カロライナ州の空港で、1985年10月28日Oshoは逮捕状なしに逮捕された[67]

逮捕後、最終的に司法取引が行われた[67]。司法取引の結果として、Oshoは告訴されていた34の罪状のうち移民管理局への偽証に関する2つの罪を認めることや、今後5年間アメリカに入国しないことを条件に釈放され、11月14日アメリカを去った[14]。Oshoの弁護士は、窮余の策として、次のように考えたのだった、Osho本人が望んでいるように、偽装結婚教唆の無罪を証明しようとすれば、法的な手続きが長引いて、彼の生命と健康は脅かされるだろう、それより一部の罪状を認めて、国外退去になったほうが、彼の安全のためにはよい、と[関係者 3][要ページ番号]。チャールズ・ターナ―(ポートランドの連邦検事)、起訴の遂行に対する責任者は、逮捕状なしでOshoを逮捕した後、記者会見を開催した[関係者 4]。記者会見でターナーは、「Oshoの告発の目的は、Oshoを米国から追い払うためだった」と述べ、法的手続きは、政治的な目的にかなうように利用されてきたことを認めた[関係者 4]。目的は刑罰ではなく、コミュニティの破壊とOshoの追放だった[関係者 4]。ターナーたちはすっかり歴史を書き換えようとしていた[関係者 2]。彼らは法廷で宣言のもとに意図的に嘘をつき、報道陣に対し事実を歪曲しすり替え、実際には起こらなかったことを巧みに起こったこととして通用させた[関係者 2][要ページ番号]。彼らの意図はOshoの名前を完全に失墜せしめること、彼の名望を抹消することだった[関係者 2][要ページ番号]

後になって、Oshoと彼の主治医はオクラホマ郡拘留所で、アメリカ政府から殺鼠剤として用いられる重金属のタリウムを盛られた可能性を疑った[関係者 2][要ページ番号][† 6]

1985年にアメリカから国外追放されたあと、Oshoは新しい拠点を求めたが、世界各国の政府から危険人物と見なされ、20数か国で入国あるいは長期滞在を拒まれ、世界を転々とした[27]。1986年3月19日ウルグアイが思いがけなく招待状を持って現れたが、ウルグアイ大統領サンギネッティは、もしOshoをウルグアイに滞在させるなら、アメリカからの60億ドルの借款は打ち切られ、将来いかなる借款も与えられないであろう、というワシントンDCからの電話を受け取り、Osho一行はウルグアイを去らなければならなかった[本人 1][要ページ番号]

インド 第2期プネー

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86年7月にはムンバイに、そして87年1月にはプネーに戻った[14]。インド・プネーに運動の本拠地が復帰した[68]。次の3年間、彼はほぼ毎日の講話を行い、年間約1万人の訪問者がアシュラムを訪れた[14]。87年以降、Oshoの講話の題材はすべて禅語録から選ばれるようになった[14]。その影響もあるのであろうか、この時期日本人の訪問者が増加した[14]

1987年1月19日、Oshoは、政治権力による弾圧から弟子たちを守るために、サニヤシンであることが一目で判別できるマーラとオレンジ系統の衣装をはずすようにと語る[本人 1][要ページ番号]

1988年7月、この14年で初めて、それぞれの夕方の講話の終わりに、自ら瞑想を指導し始める[関係者 5]。〝ミスティック・ローズ〟と呼ばれる、革命的に新しい瞑想テクニックも導入される[関係者 5]。笑い、涙、沈黙の観照の3つのステージからなる瞑想法[本人 1]である。同年5月26日、〝ミスティック・ローズ〟に続き、ジベリッシュと沈黙のステージからなる新しい瞑想法〝ノー・マインド〟を導入する[本人 1]

1989年2月から再び病気になり、弟子たちは彼をOshoラジニーシと呼ぶようになった[official 1]。さらに尊称をOshoに変えた。それまでラジニーシの名でブランド化されていた全てをOshoに変えるよう求め、ラジニーシ・インターナショナル財団改めOSHO インターナショナル財団(OSHO International Foundation)が、Oshoやセラピー等を商標登録し直し、管理を行った[official 2]

1990年1月2週目に入ると、Oshoの身体は著しく弱まる[関係者 5]。1月18日、彼はブッダ・ホールに来れなくなるほど肉体的に弱まる[関係者 5]。1月19日彼の脈拍が不規則になる[関係者 5]。医師が心臓蘇生術を準備するべきかどうかと尋ねると、Oshoは「いや、ただ私を逝かせてほしい。存在がその時期を決める」と答える[関係者 5]。彼は午後五時に肉体を離れる[関係者 5]1990年1月19日、Oshoは心臓発作のため59歳で死去した[14]。身体は1時間以内にブッダホールに運ばれ、檀上に10分間置かれた後、長い行列を従えて火葬場へと運ばれた[本人 1]。そして、その旅立ちを祝うサニヤシンたちに送られながら茶毘にふされた。

死後・レガシー

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OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートのイメージ

Osho(ラジニーシ)には決まった後継者はなく、すべてのサニヤシンが後継者であるとされ、プネーや世界各地の瞑想センターは弟子達が独自に運営している[68]

国際的に物議を醸した約20年と、社会への適応を進めた約10年の後、オショー=ラジニーシ運動は新宗教の市場で地位を確立した[69]。信奉者たちはOshoの役割を再定義し、教えの中心要素をリフレーミング(再構成)することで、部外者から問題視されることを避けた[69]。2000年にOsho インターナショナル財団は伝記『Autobiography of a Spiritually Incorrect Mystic』を出版したが、アメリカの宗教学の教授ヒュー・B・アーバン英語版によると、これはOshoの生涯を現在のOsho運動の観点から編集し、再パッケージしたものである[70]

運動は世界的にゆるやかなネットワークを持ち、セラピー・センターはアメリカのアリゾナ州セドナ、出版物はドイツのケルン、瞑想リゾートはインドのプネーにあり、Osho インターナショナル財団系以外にも、インド人を中心とする組織オショー・ディアーナ・マンディール(ニューデリー)、その系統のリトリート・センター、組織化に反対するグループや、プネーのコミュニティの在り方に異を唱え離脱した人々のグループもあり、多中心的で対立しあう、複雑な構造となっている[71][72]

Oshoは瞑想の分野で今も世界中で知られ、出版もされており、その著作には社会的、政治的な論評も含まれる[69]。彼の本のほとんどは講演の録音を書き起こした講演録で[73]、650冊以上の本が彼の作品とされ[74]、講話録は世界中30か国語以上で翻訳出版されている[71]。人間という存在の様々な側面に関する彼の見解が示されている[73]

Oshoの思想と実践は、彼の死後グローバルに広がり続け、21世紀初頭までに、オショー=ラジニーシ運動は巨大で複雑で、極めて経済的価値の高い世界的組織に成長した[72]。これはスピリチュアル運動であると同時に多国籍企業でもあった[72]。オショー=ラジニーシ運動側の社会への歩み寄りもあり、北アメリカと西ヨーロッパの社会は、ヨーガや瞑想のようなスピリチュアルな主題にある程度順応的になっている[69]。OSHO インターナショナル財団 (Osho International Foundation、OIF)は、IBMBMWのような企業の顧客向けにストレス管理セミナーを開催しており、アメリカでは年間1,500万ドルから4,500万ドルの収入があると報告されている(2000年)[75][76]。2000年に India Today は、「Osho Inc.」帝国には「80か国に750の瞑想センター、40か国語で出版された1500冊の本、音楽と説教のテープ400本、800点の署名入り絵画、10,000枚の写真、ダイヤモンドのローブとアクセサリー、ロールス・ロイスの艦隊と不動産」が含まれていると推定した[72]

Oshoの教えは彼の生前、母国インドでは多くの人に歓迎されることはなかったが、死後インドの世論に変化が生じ[77][78]、生前よりも死後の方が母国で称賛されている[50]。インドの都市部では近年新興のヒンドゥー教団の活動が活発化しており(2005年時点)、特に 1960年代後半以降に欧米の若者たちの一部で人気があったオショー・ラジニーシ運動やクリシュナ意識国際協会といった新興ヒンドゥー教団が急速にインドに逆輸入され、都市部で大きな影響力を持っている[5]

インドのある新聞は1991年に、インドの運命を最も変えた10人に仏陀マハトマ・ガンディーといった人物と共に彼を入れており、その理由は「宗教性と画一主義の束縛から未来の世代の心を解放した」こととされた[79]。インディアン・エクスプレス紙に寄稿したコラムニストのタンウィール・アラムは、「故ラジニーシは、人間の幸福を破壊する社会の不条理を見事に表現した」と述べた[80]。2006年の彼の生誕75周年記念の祝賀会で、インドの歌手ワシフッディン・ダガーは、彼の教えは「以前よりはるかに現在の社会に合っている」と述べた[81]パルヴィーン・バビ英語版マヘーシュ・バット英語版のような多くのボリウッドの有名人もOshoの教えの信奉者として知られている[82]。ネパールでは、2008年1月時点で60のラジニーシ・センターがあり、45,000人近くの弟子が入門している[83]

彼の生前、「イニシエーションを受ける(サニヤス)」とは「彼の弟子になること」だったが、死後意味が変化し、「オショー・アカデミー・オブ・イニシエーション」が1991年に発行したサニヤシンの申込書では、「個々人が自分の人生に対する新たな決意をする機会」という意味合いが強まっており、参加者のOshoへの排他的なコミットメントが弱まり、自己責任、自己判断による行動がより求められるようになっている[34]。伊藤雅之はこうした状況を、サービス提供者はある程度組織性があるが、その受け手であるクライエントは組織性がなく関与も部分的で、他の宗教運動や組織に参加している場合もある「クライエント・カルト」と理解できるとしている[34]。Oshoが多岐に渡る宗教伝統に言及し多様な実践を取り入れたこともあり、オショー=ラジニーシ運動の雑種性は高く、当事者は他のニューエイジ系の本を読んだりワークショップに参加し自己流にスピリチュアリティをアレンジすることがほとんどで、彼らの思想や実践の雑種性はさらに高い[71]

イタリアでは2016年に「Le più belle frasi di Osho」と題された風刺的なFacebookページが開設され、Oshoの写真に国政についてのユーモラスなキャプションを付けた投稿を行い、フォロワーが100万人を超えて文化現象となり、投稿は全国紙やテレビで紹介もされた[84]。彼の本は200以上の出版社から60以上の言語で出版されており[85]、イタリアと韓国でベストセラーとなった[79][86][87]

南アジアの伝統的なタントラを再解釈し、東洋と西洋を複雑に融合させたOshoのネオタントラは、1970年代以降、ヨーロッパとアメリカで人気のある性ヨーガ英語版(タントリック・セックス)のほぼすべてに多大な影響を与えた[88]。現代のタントラはニューエイジ自己啓発運動の中で広まり、ネオタントラのセンターの設立者、現在活動しているタントラの指導者は、マーゴ・アーナンダ英語版等Oshoの弟子が多い[89]。ネオタントラは現在、主に「スピリチュアルな性科学」の一種と考えられている[88]。人気のある書籍の多くがOshoの直接的な影響を認めているだけでなく、マーゴ・アーナンダの『The Art of Sexual Ecstasy(性的エクスタシーの技法)』(1990年)、訓練を受けたライヒ派セラピストのアニーシャ・ディロン『Tantric Pulsation(タントラの鼓動)』(2005年)等の弟子の作品が多大な影響力を持つベストセラー作品となっている[88]。また、タントラとヨーガに関する彼自身の書籍やDVDも世界中で売れ続けている[88]

インドのプネーにあった彼のアシュラムは、OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾート(the OSHO International Meditation Resort)というリゾート施設になっている[90][本人 2]。この施設は「東洋のエサレン」を称しており、幅広い伝統から取られた様々なスピリチュアルなテクニックを教え、美しいリゾート環境の中で自己を発見し、肉体と精神の欲求を統合するためのスピリチュアルなオアシス、「聖なる空間」であると宣伝している[51]。インドにあるが地域性を感じさせない脱土着化したスピリチュアル・リゾートになっており、入場者のほとんどは外国人である[71]。プネーの指導者たちはインド人ではなく、彼らが利益主導の商業主義に陥り、本当のコミューンから、裕福な観光客が数日リラックスするために訪れるだけの、西洋化された高級リゾートに変わってしまったと憤慨するサニヤシンもいる[72]。報道によると、著名な訪問者には政治家やメディア関係者もいる[90]。2013年現在、OSHO インターナショナル・メディテーション・リゾートは、到着時にすべての宿泊客にHIVエイズの検査を義務付けている[91]

Oshoの名前、本、技法の権利は、インドからスイスのチューリッヒとアメリカのニューヨークに移されたが、インド人サニヤシンが増加する中で、インド人の中にはこうした動きにショックを受け、プネーのセンターを運営する非インド人達によってオショー=ラジニーシ運動が商業化され、西洋化され、インド人が除け者にされていると怒りを表す人も増えた[72]

2011年に、Oshoの教えに関する全国セミナーがジャバルプルのマンクンワルバイ女子大学の哲学科で開催された[92]。このセミナーは大学助成委員会のボーパール事務所が資金提供し、Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」の教えに焦点を当て、霊性・精神性と唯物論的・客観的なアプローチの調和を模索した[92]

Oshoの生前は日本でも若者を中心に信奉者が増えたが、彼の死後日本ではあまり活発な活動はみられない[4]。1988年に開設された OSHO サクシン瞑想センターは2018年時点でも東京にあり、瞑想や各種セミナーの開催、Oshoの書籍の販売などが行われている[4]

思想と活動

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ロールス・ロイスを運転するOsho

Oshoの教えは講話を通じて伝えられたが、学術的なものではなく、ジョークを交えて語られた[93][94]。強調されるポイントは一定ではなく、時とともに変化し、パラドックスや逆説を大いに楽しんでいたため、全体的な内容を要約することは困難だった[95]。彼は悟りを開いた人々の伝統的なイメージとかけ離れた行動をとることを楽しみ、特に初期の講義はユーモアがあり、何事にも冗談抜きで取り組むことを拒んだことで知られた[96][97]。こうした行動は、いかに気まぐれで受け入れがたいものであっても、人々を「(理性的な)心(マインド)の超越」へと導く「変容のテクニック」であると説明された[96]。人間の究極的な目的は「光明(enlightenment)を得ること」で、真理の探究が第一の優先事項だとされた[98][本人 3]

ジャイナ教ヒンドゥー教ハシディズムタントリズム道教シーク教スーフィズムキリスト教仏教を含む主要な霊的伝統について、東洋と西洋の様々な神秘主義者について、ウパニシャッドグル・グラント・サーヒブなどの聖典について語った[99]。社会学者のルイス・F・カーターは、彼の思想がヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダーンタに基づくと見ており、そこでは、分離し、二元的で、一時的な人間の経験は、すべてが神聖で絶対的な価値を持ち、それ自体が執着点である宇宙意識(cosmic consciousness)のダンスや遊びの一種であると考えられている[100]。同時代のジッドゥ・クリシュナムルティはラジニーシを認めなかったが、両者の教えには明らかな類似点がある[95]

西洋の思想も幅広く取り入れた[99]対立物の統一英語版に対する彼の信念はヘラクレイトスを思わせ、一方で、無意識神経症的パターンに従って無力に行動する機械という人間の描写は、ジークムント・フロイトゲオルギイ・グルジエフと多くの共通点を持っている[95][101]。因習の縛りを超越した「新しい人間」というビジョンは、フリードリヒ・ニーチェの『善悪の彼岸』を彷彿とさせ[102]、彼の性的解放の促進はD・H・ロレンスと比較することができる[103]。そして彼の「ダイナミック(動的な)」瞑想は​​、ヴィルヘルム・ライヒに負っている[104]

ヒュー・B・アーバンは、Oshoの哲学は因習を打破しようとするもので、折衷的でしばしば矛盾して見えるが、その核心にあるのは「ゾルバ・ザ・ブッダ」の理想であると述べている[88]。Oshoは、他の宗教が物質的なものと霊的なものを分離しようとするのに対し、完全に悟りを開いた存在は、映画『その男ゾルバ』の主人公のギリシャ人ゾルバの感覚的な享受と生への欲望と、仏陀の精神性と超越的な洞察力とを併せ持つと主張した[88]

自我と心

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Oshoは、人間の究極的な目的である光明を得た状態、「本来の自分」とは、人々の真の個性が全面的に開花し、自己が宇宙全体から分離していない意識状態であり、虚偽の実存である人間の自我(ego)が最大の障害になるとする[98]。自我は教育、社会的条件づけ、社会化によって増進していくとみなし、親の教育や学校教育、道徳的、宗教的な教えなど全ての教育は、特定の信念体系や社会的役割を教え込み、人間を鋳型にはめこむと考えて、既存の教育全てを激しく批判した[98]

また、特に組織宗教やその指導者を激しく批判した[98]。批判のポイントは、従来の組織宗教の多くが彼岸(あの世、死後)での目的達成を掲げているため、生きているこの世界での世俗的な人生を全体的に享受し、スピリチュアルな成長の機会とすることが妨げられること、Oshoは性的エネルギーを本来自己変容の機会であるとみなしているが、彼らはそれを否定し性をタブー化していること、権威主義的な宗教組織の制度が、本来内的体験から見いだされる宗教的エッセンスを見失わせることである[98]

Oshoは、固定された永続的な自己やアイデンティティという考え自体に異議を唱え、絶えず移り変わるアイデンティティという逆説的な理想を掲げた[70]。固まった考え方、正統性、そして何より宗教的教義に抵抗し、常に流動する「流動的な人間」である「新しい人間」の誕生を呼びかけた[70]。光明を得る妨げとなる自我を落とすためには、「いかなる価値判断もせずに自己の信念や思想、感情のパターンを見守り続けていくこと」が必要だとし、「過去や未来に煩わされることなく『いま、ここ』で覚醒する」ことを強調している[105]。サニヤシン達は、理性重視の「マインド」という言葉をしばしば否定的に用いる[106]ポストモダニズムは、目的、計画、決定性という理想より、遊び、偶然、皮肉、不確定性を強調する点を特徴とし、この断片化、遊び、不確定性という特徴は、何よりも自己または主体という概念にまで及んでいる。ヒュー・B・アーバンは、このような人間像を理想としたOshoは、おそらく20世紀初の「ポストモダンのグル」であると評している[70]

また彼自体が、流動的で移り変わりやすく、時に矛盾した人物であり、その時々、それぞれの聴衆に合わせた複数のアイデンティティがあるかのように見え、伝記を再構成する上での難しさとなっている[70]。Oshoは、自身のアイデンティティの中には、今の人生よりも前の、何世紀も前の過去生(前世)のものも含まれると語っている[70]

善悪の価値判断の相対化

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伊藤雅之は、Oshoの世界観はホリスティック(全体論的)であり、他のニューエイジの言説と同様に、「善悪の価値判断(倫理)を相対化する傾向」があると指摘している[107]

Oshoやニューエイジに見られる「いま、ここ」を重視し、善悪の判断基準を相対化する態度からは、自分の「瞬間、瞬間の行為が正しいかどうかを、既存の価値基準を使わずにいかに判断するのか」というジレンマが生じる[108]

伊藤雅之は、「ラジニーシが掲げる『何の価値観ももたずに、いま、ここで覚醒する』という主張は、特定の規律や倫理的基準を与えず、むしろそれを否定する傾向にある。ということは、担い手たちがスピリチュアリティを追求する際に、具体的に『何をするのが正しいのか』に関する一定の見解は与えられず、物事に対するさまざまな解釈を容認する結果となってしまう。ORMの諸活動、特にオレゴン期の問題へのサニヤシンの判断力の欠如には、(社会的条件づけの結果である)既存の価値観に基づいて善悪を判断することへの躊躇が関連していたと思われる。元来は、社会からの拘束や罪悪感から個人を解放するために掲げられた『いま、ここを生きる』という理念も、特定の状況下においては逸脱的な行為を容認してしまう可能性を招くのである。」と指摘している[109]

瞑想とセラピー

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瞑想を単なる修行としてではなく、全ての瞬間に維持すべき意識状態、信念と期待によって条件付けられた機械的な反応の眠りから人間を目覚めさせる完全な気づき(アウェアネス)として提示した[110][111]。彼は心理的・感情的パターンへの気づきのために、瞑想の準備段階として西洋の心理療法を採用した[112]。オショー=ラジニーシ運動における瞑想やグループ・セラピーの目的は、他のニューエイジの実践と同様に、「社会や文化の影響によって鋳型にはまってしまっている自己を解放し、瞬間、瞬間を覚醒して生きること」であるとされる[106]

Oshoが勧めたセラピーの大半は、1960年代から70年代にヒューマンポテンシャル運動で開発されたものに由来しており、多くのセラピストが新しい可能性を求めてインドのアシュラムに集まりセラピーを行った[25]。直接肉体にアプローチするセラピー、幼少期の自分を再体験するセラピー、関係性や性のタブーを見つめなおすセラピーなど、様々なものが行われたが、伊藤雅之によると、セラピーの主要な目的は2つで、第1は「怒りや恐怖、嫉妬など抑圧された感情を見つめ、感情のブロックを取り除いてエネルギーが流れるようにすること」、第2は「『ありのままの自分』を受け入いれ、気づきを高めていくこと」である[113]

意識変容を促進する手段として、Oshoは全部で100以上の瞑想技法を提案した[110][111][14]。東洋の伝統では静かに座って思考を観照することが瞑想であったが、思考や感情をより観察しやすいように体の動きを瞑想の中に取り入れた[14]。その「アクティブ(動的な)瞑想」の技法は、静寂に至る身体活動の段階を特徴とする[112]

この中で最も有名なのは、1970年4月に提唱されたダイナミック瞑想で[112]、インドとヨーロッパのテクニックを融合させたもので、インドの瞑想法の一側面と、グルジェフ、ポスト・フロイト派の精神分析、エンカウンター・グループニューエイジのスピリチュアリティなど、「クレイジーな知恵(crazy wisdom)」の教師たちが持つ要素を組み合わせたもので、アーサー・ヤノフの原初療法やヴィルヘルム・ライヒのライヒ療法などの西洋の心理技法に明らかに影響を受けている[114]。人間の習慣的な思考と行動のパターンに衝撃を与えるようにデザインされている[114]。この技法は今日にまでオショー=ラジニーシ運動の中核をなす実践法であり[115]、彼の哲学と方法全体の一種の縮図だと言われている[115]。「私のダイナミック瞑想の技法は、あなたの神経症をありのままに受け入れ、解放しようとするものである。この技法は基本的にカタルシスから始まる。隠されたものは何でも解放されなければならない。…あなたが 「意識的に狂気」にならない限り、決して正気になることはない。[114]

この瞑想は目を閉じるか目隠しをした状態で行われ、5つの段階から成り、そのうちの4つは音楽を伴う[116]。まず瞑想者は10分間、鼻からの速い呼吸を行う[116]。後半の10分間はカタルシスを得るためのものである。「何が起きても、起こるままに任せなさい。…笑う、大声を出す、絶叫する、飛び跳ねる、揺れる、あなたがやりたいと感じたことは何でも、それをやりなさい!」[112][116](この段階は、1970年に広く普及し始めた原初療法によく似ている[114])。次に10分間、両手を上げてジャンプし、足裏が地面に着くたびにフー!と叫ぶ[116][117](「フー」はスーフィズムの言葉で、イスラム教の神の名前の1つで「彼」を意味する[114])。次の段階は沈黙であり、瞑想者は突然完全に動きを止め、15分間完全に動かずに、起こっていること全てを観察する[116][117](Oshoは、この段階がグルジエフに触発されたものだと認めている[114])。最後の段階は、15分間の踊りと祝賀である[116][117]

クンダリーニ「シェイキング」瞑想やナーダブラーマ「ハミング」瞑想など、他の動的な瞑想技法も開発したが、これらの瞑想技法はある種の身体的な活動も含むものの、それほど動的なものではなかった[112]。彼はまた、弟子たちに無意味な音をただしゃべらせるギベリッシュ・セッションを主催したが、彼によれば、これは心のゴミを一掃し、リラックスさせるものである[118][119]。彼の後期の「瞑想療法」は数日間のセッションを必要とし、OSHO ミスティック・ローズは、1週間は毎日3時間笑い、2週目は毎日3時間泣き、3週目は3時間黙想することからなる[120]。これらの「起こっていることを見ること」のプロセスは「気づき(アウェアネス)への跳躍」を可能にするという[112]

最初のインド時代のプネーのアシュラムでは、光明を得る手助けとしてかなり実験的なセラピーが行われており、1970年代にアシュラムで行われたほぼ全てのセラピーは全裸になるよう求められ、エンカウンター・グループの中では他の参加者への肉体的暴力が許されることもあり、怪我や骨折で病院に連れていかれた者もいたと言われ、タントラ・グループではセラピー内で相手を探しセックスすることが求められ、数日間のセラピーで複数の相手とセックスすることもありふれていたという[29]。こうした実験的なセラピーの採用は、オショー=ラジニーシ運動の特徴となっており、他の成長センターで行われたセラピーとは大きく異なり、強烈なものだった[121]

スーザン・J・パーマーとフレデリック・バードは、ラジニーシプーラムの時代、こうしたセラピーは、儀式を通じて新しいメンバーのタブー意識を破壊し、新しいアイデンティティを構築させ、コミューンのオルタナティブな性倫理を教育し、メンバーをコミュニティに迎え入れる機能を持っていたと考えている[122]。また、オショー=ラジニーシ運動に見られるエサレン風のヒューマニズムと東洋風のグル崇拝は両立し難いものだが、グループ・セラピーが、個人主義的な癒しの重視と、共同体的な信心重視の間の絶え間ない葛藤を解消する場になっていたとみている[122]

あらゆる境界の破壊

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最初のプネーのアシュラムは徐々に暴力的、権威主義的になっていったが、Oshoはアシュラムにおける自由の欠如と暴力の容認について、あるサニヤシンから直接質問され、アシュラムは決して民主的なものではなく、極めて独裁的なもので、自分が決めたことは絶対だとはっきり述べている(やり取りは1978年に同団体の雑誌に掲載された)。彼はまた、こうしたグループ・セラピーの一部にある暴力や性的実験は、あらゆる境界を根本的に破壊し、完全な精神的解放をもたらすために必要だと説明し、アシュラムを去るか、何に参加するかは当人が選ぶことだと諭している[123]。オショー=ラジニーシ運動の中で育ったティム・ゲスト英語版は、あらゆる境界を見つけて立ち向かい、そのためなら、泣いても叫んでも、喧嘩でもセックスでも、何をしても許されたと語っている[114]

ダイナミック瞑想の医療的利用の検証

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アメリカのダラスの精神科医Vyas, A博士は、Oshoが編み出したダイナミック瞑想の臨床効果を調査するために、パイロットスタディを行い論文にまとめた。本研究は治験者が実際に瞑想を行い、ペアワイズ比較を用いて行われた。結論として、攻撃的行動、抑うつ状態、形質的危険性、感情的な疲労、役割の過負荷、心理的な緊張の大幅な減少が見られたと実証した。そして、心理療法として使用することができると示している。[124][信頼性要検証]ただし、この論文の出版元「ATHENS INSTITUTE FOR EDUCATION AND RESEARCH」は、ハゲタカジャーナルと呼ばれる出版社・学術誌のリスト「ビールのリスト」に掲載されている[125][126]

2015年に21日間、OSHO Dynamic Meditationの実験研究が行なわれた。インド、ラックナウで行われたこの研究は、20-50歳の健康なボランティア20名(男性14名、女性6名)が参加し(4名は健康上や一身上の理由で脱落)血漿コルチゾール値(ストレスに関与し、過度なストレスを受けると分泌量が増加し、抗ストレスホルモンとして恒常性の維持に不可欠な物質)を測定し、このアクティブ瞑想が抗ストレス効果を生み出すと結論づけた。健康なボランティアを対象に実施され、参加者数が16名と少ないことが指摘されており、ダイナミック瞑想のストレス解消効果をより実証するには、ストレスを抱えた人々を対象に、大人数が参加する研究をさらに行う必要がある。[127]

タントラと性愛

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ヒュー・B・アーバンによると、欧米で再解釈された現代のタントラの世界的普及で最も大きな役割を果たしたのはOshoである[88]。彼はインドの因習的伝統や組織宗教に対する批判を行い、セックスが超意識に至る手段になりえると説いて議論を巻き起こし、身体を重視するホリスティックな教え、タントラ的な「悟り」とそこに至る方法を教えた[26][53]

Oshoはカリフォルニアのエサレン協会などのニューエイジ・センターで広まっていたアメリカ風のタントラと性的解放の理想に強く影響を受け、ヒンドゥー教と仏教のタントラの側面を、アメリカのニューエイジ運動にあった現代の心理学、精神分析理論と技法と統合し、伝統的な南アジアのタントラを再定義し、性愛と性的快楽、オーガズム(性的絶頂)の原始的な力を究極の神性の源、一種の「超意識」に変えることに主に焦点を当てた独自の「ネオタントラ」を創り出した[88][89]

彼の性愛の理解とタントラの再定義は、ポスト・フロイト派の精神分析家で、心理療法と代替医療における「身体ムーブメント」の最重要人物であるヴィルヘルム・ライヒの研究に大きく依拠しており、クンダリニーは肉体に潜在する一種の原始的な性的エネルギーであるというOshoの考えは、肉体を巡る生来の性的パワーであるオルゴン・エネルギーというライヒの概念と非常に似ている[88]。またライヒ同様に、性的抑圧を社会的、政治的抑圧と明確に結び付けており、よって性的解放を社会的、政治的変革の究極の源泉と見なした[88]。Oshoはライヒのことを、東洋の源泉とは独立してタントラ・セックスの秘密を発見した一種の西洋のタントリストだと認識していた[88]

1960年代から1970年代にかけて、タントラはカウンターカルチャーと性革命の重要な一部となり、 Osho等の有名なグルが「ネオタントラ」の実践を推進し始め[88]ニューエイジ自己啓発運動の中で広まった[89]。Oshoのような西洋人を弟子にしたインドのグルや、アメリカ人ヨーガ行者のピエール・バーナード英語版のような西洋のタントラ指導者は、セックスと瞑想を融合したエキゾチックで興奮させられる慣習という西洋人的なタントラ文化のイメージにどちらも賛同している[128]

師弟関係

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思想家からグルに転身した当初、インド人の弟子が実践した弟子の条件やグルへの帰依は、インドの宗教伝統に基づいたものだった[52]

Oshoはグルと弟子の一対一の師弟関係を肯定・強調し、それが光明を得る手助けになると主張し、「サニヤシンがより『自分自身になる』道を開くため」とされた[129][107]。彼が説く師弟関係はグルへの絶対帰依ではないとされる[25]。「光明を得た」存在が人々の意識変容を促すと主張した[107]

彼の弟子たちはサニヤシン(sannyasin)と呼ばれている[107]。「サニヤシン」という語はもともと、インドの宗教的慣例に従って家庭と世俗を捨てた修行者のことだが、Oshoは世俗を離れるのではなく、現世肯定的なサニヤシンのあり方を強調した[107]。「サニヤシンになるということは、何か新たな信念体系を獲得することでもなければ、個人的な所有物を放棄することでも、また特定の人物に追従することでもない」とし、「明け渡し(サレンダー)」について、自我は観念にすぎないため、弟子は師に自我を明け渡すことで特定の何かを明け渡しているわけではなく、自分が持っていると信じている実際には存在しないもの全てを明け渡していると説明している[107]

理想的には、サニヤシンたちはOshoの思想に服従する必要はないとされるため、Oshoの弟子たちは「信者」と呼ばれることを嫌う[107]。しかし伊藤雅之は、にもかかわらず、「その世界観を具現化するためのアシュラムや各種の活動のなかには、ラジニーシの教えと矛盾する内容もしばしばみられた。(中略)また、ラジニーシの支持者にも、ともするとラジニーシを教祖として崇拝し、その教えを絶対的なものとして盲信する傾向がみられた。」と指摘している[129]

女性の評価・待遇

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Oshoは、女性は生まれつきより大きな性的エネルギー(シャクティ、つまり女性の力)を持っているため、多くの点で本質的に男性よりも優れており、「女性は何度もオーガズムに達することができるが、男性はできない」という事実によって証明されるとした[123]。また「直観力、受容力、献身などの美徳ゆえに、女性はより容易にグルに従い、瞑想の微妙なエネルギーに対して自らを開くことができる」とし、インドでは無知で不浄とされ、社会的にも霊的にも劣位に扱われる傾向のある女性を霊的に評価した[130]。女性にこうした「女性らしさ」の特質を求めることは、「退行的で時代錯誤的」であるという批判もあった[130]。母性のもう一つの道、女性に開放をもたらすものだと感じる女性も多かった[130]。女性の時代が到来しようとしており、女性の自由は、西洋の「女性解放のような愚かな運動では実現できない」とし、女性の仏陀を数名でも創ることができれば女性はすべての束縛から解放されると語った[123]

オショー=ラジニーシ運動は女性がかなり多く、様々な推定によると、運動の初期の歴史において女性の割合は 3:1 から 3:2 の範囲で男性を上回っていた[123]。Oshoは、女性は帰依者としてだけでなく管理者と優秀だと考えたため、教団の重要な地位に多くの女性が付いており、これは他の宗教にはあまりみられない[130]。マ・ヨーガ・ラクシュミーやマ・アナンド・シーラ等のパワフルな女性たちが重要な役割を果たし、彼女たちには、女性に対しては異例ともいえるスピリチュアルな権威が与えられており、オレゴン州のラジニーシプーラムのコミューンでは、Oshoが沈黙しシーラとその女性の仲間が運動の公的な代弁者となることを許可したため、少なくとも目に見える形では、ほとんど女性によって運営されていた[123]

同性愛

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Oshoは、タントラは「無条件の自由」であり、セクシュアリティの革命的解放であると繰り返し宣言していたが、性のすべての在り方を受け入れていたわけではなく、特に同性愛については、不自然な倒錯であり、宗教的抑圧の副産物であるとはっきり表現し、かなり強く声高に否定していた[123]。「私は同性愛を倒錯と呼ぶ。…あなたの中には同性愛のための生物学的プログラムはない。あなたの精子の生物学的プログラムは異性愛である。私は単に、宗教の修道院で醜悪なプレッシャーを受けて同性愛が生じ、性的禁欲の清浄さの名の下に同性愛が強要されたという事実を開陳しているだけだ。」と語っている[123]

反社会主義・グローバル経済支持

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Oshoは高校時代に社会主義に深く興味を持っていたが、その後、経済システムとしての社会主義に次第に幻滅していった[114]。1960年代後半までに彼の社会主義に対する疑念は、その知的基盤と、現代インドにおける社会的・経済的・倫理的影響に対する非常に厳しい批判に発展した[114]。著書『Beware of Socialism !(社会主義に用心せよ!)』 (1978年)では包括的な社会主義批判が行われたが、1960年代後半から死去するまでの彼の講話全体に同様の見解が見られる[114]。彼は社会主義を主に、貧しい持たざる者たちが、苦労して自らの力で豊かになった裕福で勤勉な人間に対して抱く嫉妬に基づくイデオロギーとみなし、非難した[114]

Oshoは、社会主義は富を貧困者に分配するという「不自然な」試みに基づいているが、資本主義は、干渉的な国家や無能な官僚の介入なしに資本が成長する、社会主義よりはるかに「自然な」イデオロギーであると考え、経済成長の妨げは政府であり、政治家は経済成長の邪魔をする無能な「愚か者」の集まりに過ぎないと批判した。彼にとって、資本主義は自由に関するものであり、「資本主義は、あらゆる種類の人々に、人生のあらゆる過程において、成長し自分らしくあるための完全な自由を与える人道的なシステムである。…資本主義の終焉の鐘は、結局は人間自身の終焉の鐘となるかもしれない。」と語り、ロックフェラー家のような成功した資本家が残りの民衆に富を分配することで、真に公平で永続的な「社会主義」社会が創造されるとした[114]。彼はインドにおけるアメリカ式資本主義の初期の提唱者であり、マハトマ・ガンディーの禁欲主義、質素さ、国家主義を否定し、「私にとって、アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど危険ではない。アドルフ・ヒトラーはマハトマ・ガンディーほど暴力的ではない。」と語り、グローバル資本主義、物質主義、繁栄を支持する、一種の「反ガンディー」として活動した[114]

彼は同時代の他の国際的なグルにように、ヒンドゥー・ナショナリズムを主張したことは一度もなく、国際資本主義を信奉し、近代技術と西洋資本主義と共に、性欲と肉体的快楽を受け入れる、新しい種類の官能的なスピリチュアリティを主張した[114]

著作権・商標

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Osho自身は1988年の講演で著作権商標の問題にはっきり言及し、瞑想テクニックが著作権で保護されるという考えを否定し、インド人導師マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが広め、著作権で保護され商標登録されている超越瞑想(TM)を取り上げ、西洋の企業および法的論理をインドのスピリチュアルな伝統に適用しようとする試みを批判した[72]

「物は著作権で保護できるが、思考は著作権で保護できない。そして、瞑想は当然著作権で保護できない。それらは市場の物ではない。誰も何かを独占することはできない。しかし、おそらく西洋人は、客観的な商品と内なる経験の違いが理解できないのだろう。」「東洋では一万年もの間瞑想が行われてきたが、瞑想に商標を付ける人は誰もいない。そして何よりも、その『超越瞑想』は超越でも瞑想でもなく、単なる商標である。」[72]

Oshoの死後の著作権・商標問題については、#死後の著作権・商標に関する法的紛争を参照。

セクシュアリティ

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Oshoは自伝的な発言を数多く残しているが、自身のセクシュアリティについて公に語ったことは一度もない[123]

セクシュアリティに関する周囲の理解や証言は一様でない。21歳で悟りを開いてから一度もセックスしていないと信じる者もいれば、毎日2人以上の女性とセックスしていたという者もいる[123]。女性の弟子たちが定期的にOshoとの、性的な行為を伴うプライベートな、秘密の「特別なダルシャン英語版」に呼ばれ、これは彼女たちにとって名誉なことだったと回想する者もおり、多くの女性がこの「特別なダルシャン」の経験について語っているが、その内容は一様ではなく矛盾もある[123]。セックス中に深い働きかけを受け内なるエネルギーを動かされたという者もいれば、彼のセックスは冷たい支配の道具だったという者もいた[123]

ヒュー・B・アーバンは、彼が活発で乱交的な性生活を送っていたとしても、それはのゾルバ・ザ・ブッダやネオタントラの教えとは矛盾せず、単に論理的であると言え、彼の性的嗜好に関する周囲の様々な見解は、彼の教えや、「無宗教の宗教」の逆説的で時に矛盾する性質と一致すると述べている[123]

レセプション

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Oshoは一般的に、20世紀にインドから現れたスピリチュアルな指導者の中で最も物議をかもした一人と考えられている[131][132]。 性的、感情的、霊的・精神的、組織的な解放というメッセージと、人を怒らせ感情を逆撫でするというその楽しみから、彼の人生は物議を醸すものになった[133]。 Oshoはインドでは「セックス・グル」、アメリカでは「ロールス・ロイスのグル」として知られるようになった[134]。 伝統的なナショナリズムの概念を攻撃し、政治家に公然と軽侮の念を示し、様々な宗教の指導者を嘲笑ったが、その対象となった人々はOshoの不遜さを耐えがたく感じた[135][136]。セックス、結婚、家族、人間関係に関する彼の教えは伝統的な価値観と相容れず、世界中で多くの怒りと反感を呼んだ[137][138]。オショー=ラジニーシ運動は広くカルトと見なされていた。Oshoは「けばけばしく、とんでもなく贅沢に」暮らしていると見られていたが、一方で彼の弟子のほとんどは教団の外の友人や家族との関係を断ち切り、自分の金銭や財産のすべて、もしくはほとんどをOshoのコミューンに寄付し、「最低水準の生活」を送っていたと思われる[139][140]

宗教学者による学術的評価

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Oshoの仕事に対する学術的な評価は様々である。ウダイ・メータ(Uday Mehta)は彼の大乗仏教の解釈には誤りがあると指摘し、「彼の教えには甚だしい矛盾と不整合があり、聞き手の『無知と騙されやすさ』を『悪用』している」と語った[141]。 社会学者のボブ・マラン(Bob Mullan)は1983年に、「偉大な伝統から真理、半面の真理(しか含まない言葉)、偶に誤り伝えられた事を借用している...多くの場合、口当たりがよく、不正確で、もっともらしく、極めて矛盾している」と書いた[142]。ヒュー・B・アーバンもまた、Oshoの教えは独創的でも特に深遠でもないと述べ、その内容の大半は様々な東洋と西洋の哲学から借用したものであると結論付けた[97]。 一方、ジョージ・D・クリサイディス英語版は、Oshoは「アマチュア哲学者ではない」のだから、彼の教えが様々な宗教的教えの「ポプリ(寄せ集め)」と評するのは残念なことだと考えた。彼はOshoの学問的背景に注目し、「彼の教えを受け入れるかはともかく、他人の思想を解説することに関してはペテン師ではなかった」と述べている[132]。クリサイディスは、Oshoを主に仏教の教師であるとみなし、独自の「ビート禅」を推進したと述べ[132]、その教えの非体系的で矛盾した過激な側面は、人々の変化を誘発しようとするものであり、主題の知的な理解を目的とした哲学の講義ではないと捉えている[132]

ボブ・マランは同様に、Oshoが西洋のカウンターカルチャーヒューマンポテンシャル運動を取り入れたことに関して、その視野の広さと想像力は誰に劣るものでもなく[142]、発言の多くは非常に洞察的で感動的であり、時には奥深いと言えるかもしれないと認めているものの[143]、Oshoの思想は、愛と自由、今を生きる必要性、自己の重要性、「大丈夫だ」という感覚、人生の神秘性、楽しさという倫理、個々人の運命に対する自己責任論、恐怖と罪悪感とともに自我(エゴ)を捨てる必要性に焦点を当てた「カウンターカルチャー主義とポスト・カウンターカルチャー主義の思想の寄せ集め」だと理解していた[144]。 ウダイ・メータは、Oshoが西洋人の弟子たちを魅了したことは、東洋のグルと弟子の伝統英語版(グル・シッシャの伝統)と西洋のヒューマンポテンシャル運動との間に哲学的な繋がりを築いた彼の社会実験に基づいていたと指摘しており[131]、メータはこれを、聴衆の欲求を満たすためのOshoのマーケティング戦略だとみなしている[97]。ヒュー・B・アーバンもまた、Oshoがスピリチュアルな欲求と物質的な欲求との間の二項対立を否定し、後期資本主義の消費者文化に特徴的な身体と性愛への拘りを反映しており、当時の社会経済的な時勢に合わせているとみている[145]

イギリスの宗教学教授ピーター・B・クラーク英語版は、アメリカの心理学者アブラハム・マズローとヒューマンポテンシャル運動によって定義された自己実現という意味では、大部分の参加者は進歩を感じたと述べている[146]。 クラークは、Oshoが考案したセラピーのスタイルは、性愛を人生の神聖な一部としてリベラルに捉えており、他のセラピーの実践者やニューエイジのグループに影響を与えていることが分かったと述べている[146]。しかしクラークは、この運動に参加した求道者たちの主な動機は「セラピーでもセックスでもなく、古典的な仏教の意味での悟りが開けるという期待」であったと考えている[147]

ヒュー・B・アーバンは2005年に、Oshoはインドへの帰国後、特に死後の数年間で「驚くべき神格化」を遂げたと述べており、100年以上前にマックス・ミュラーが「電流のように、東洋の思想が西洋に流れ、西洋の思想が東洋へと戻る世界規模の輪」と呼んだものの強烈な実例であると評した[145]。またピーター・B・クラークは、Oshoが「インド国内で重要な教師として見られる」ようになり、「20世紀の主要なスピリチュアル教師のひとりとみなされるようになり、自己啓発に基づくスピリチュアリティの、『世界を(進んで)受け入れる』現在の傾向の最前線にいる」と述べている[146]

カリスマ的指導者としての評価

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多くの評論家がOshoのカリスマ性に言及している。イギリスの精神科医精神分析家のアンソニー・ストア英語版は、Oshoとグルジェフを比較し、Oshoは「個人的に非常に印象的だった」「初めて彼を訪ねた人の多くは、自分の最も本質的な感情がすぐに理解され、判断されるのではなく受け入れられ、はっきりと歓迎されたと感じた。(Oshoは)エネルギーを発し、彼と接触した人々の隠れた可能性を目覚めさせるようだった」と述べた[148]。多くの弟子はOshoの話を聞いて「彼に恋に落ちた」と述べている[149][150]。スーザン・J・パーマー(Susan J. Palmer)は、批評家でさえ彼の存在感を証言していると述べている[149]。精神科医で研究者のジェームス・S・ゴードン(James S. Gordon)は、通りすぎるロールス・ロイスの中からOshoに一目見られただけで、なぜか自分が子供のように笑い、見知らぬ人と抱き合い、目に感謝の涙を浮かべたりしたと回想している[151]。ジャーナリストのフランシス・フィッツジェラルド英語版は、Oshoの話を直接聴いて素晴らしい講演者だと評価し、彼の著書を読んでもわからなかったコメディアンとしての才能と、聴衆に深い影響を与える彼のトークの催眠的な性質に驚きを示した[152]。ヒュー・ミルン(スワミ・シヴァムルティ)は、1973年から1982年までプーナのアシュラムの警備隊のリーダーとして[153]、またOshoの個人的なボディーガードとして近しく働いたが[154][155]、最初の出会いを振り返り、「プライバシーの侵害も感じず警戒心も湧かなかったが、まるで彼の魂がゆっくりと私の中に入り込み、一瞬のうちに重要な情報を伝えているかのようだった」と、二人の間に言葉以上のものが行き交ったという感覚が残ったと述べている[156]。ミルンはまた、Oshoのカリスマ的能力の別の側面にも注目し、「疑うことを知らない弟子を巧みに操る」人物であると述べている[157]

ヒュー・B・アーバンは、Oshoはマックス・ウェーバーによる、「本質的に非合理的で感情的な、並外れた超自然的な力、あるいは『恩寵(grace)』」を持つという、古典的なカリスマ的人物像に合致するように見えると述べた[158]。Oshoはあらゆる合理的な法律や制度を否定し、あらゆる階層的権威を転覆すると主張する点で、ウェーバーの言う純粋なカリスマ的タイプに一致しているが、アーバンは、彼の主張が内包する絶対自由の展望は、コミューンにおける官僚的組織や制度的な統制に帰着したと述べている[158]

一部の学者は、Oshoが自己愛的な人格を持っていた可能性を示唆している[159][160][161]オレゴン州立大学の宗教学名誉教授ロナルド・O・クラーク(Ronald O. Clarke)は、論文『The Narcissistic Guru: Bhagwan Shree Rajneesh(自己愛的なグル:バグワン・シュリ・ラジニーシのプロフィール)』の中で、Oshoが自己愛性パーソナリティ障害の典型的な特徴、たとえば、自分が重要で特別であるという誇大な感覚、無限の成功の空想へのとらわれ、絶え間ない注目と賞賛を求めること、自尊心への脅威に対する一連の特徴的な反応、対人関係の障害、身だしなみへの執着と頻繁な言い逃れや完全な嘘、共感性の欠如といった特徴を全て示していると述べ、Oshoが自著『Glimpses of a Golden Childhood(黄金の幼少期のひととき)』の中で語っている幼年期の回想から、クラークは彼が過度の甘やかしをする祖父母のもとで育ったために、根本的な親のしつけ不足の影響を被ったのではないかと示唆した[161]。クラークは、Oshoが仏陀を自称したのは、自己愛性パーソナリティ障害に伴う妄想体系の一部であり、自我を手放したというより、むしろ自我の肥大の状態であると結論付けた[161]

思想家・言論人としての広範な評価

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ラジニーシの思想家、講演者としての資質については、様々な評価がある。著名な作家・歴史家でヒンドゥスタン・タイムズ紙の元編集者クシュワント・シンは、Oshoを「インドが生んだ最も独創的な思想家。最も博学で、明晰で、革新的」と評している[162]。シンは、Oshoは「自由思想の不可知論者」であり、最も抽象的な概念を機知に富んだ逸話を交え易しい言葉で説明する能力を持ち、神々、預言者、聖典、宗教的慣習を嘲笑し、宗教にまったく新しい次元を与えたと考えている[163]。ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクはOshoの帰依者(1978年から1980年までプネーのアシュラム在中)だったが、彼を「宗教のウィトゲンシュタイン」と呼び、世界の諸宗教が行う言葉遊びの根本的な脱構築を行ったとみなし、20世紀の最も偉大な人物の一人に数えた[164][165]。エリザベス・パティックは、Oshoは「霊性の本質を統合する哲学と雄弁の才能により、その知性の幅広さと奥深さを賞賛」されたと述べている[166]

1980年代初頭、一般紙では多くの論者がOshoを否定的に見ていた[167]。オーストラリアの批評家クライヴ・ジェイムズ英語版は彼を「バグウォッシュ」と軽蔑的に呼び、彼の講話を聴くことは、コインランドリーで洗濯物が回るのを何時間も眺めるようなものだと喩え[167][168][169]、「彼のようなタイプとしてはマシな例」ではあるが、「操られやすい者を操り、互いに操り合うよう仕向ける、虫の好かない奇人」であると述べた[167][168][170]。バーナード・レヴィンはタイムズ紙にOshoの講演に対する熱狂的な批評を書き、同じくタイムズ紙に寄稿しているドミニク・ウジャスティクはこれに応じて、プネーのアシュラムを訪問した際に聞いた講演は非常に低水準で、うんざりするほど繰り返しが多く、事実誤認が多いという意見を述べ、Oshoを取り巻く個人崇拝に不穏なものを感じると述べている[167][171]

1990年1月にシアトル・ポスト・インテリジェンサー紙に寄稿したアメリカの作家トム・ロビンズ英語版は、Oshoの著書を読んで、20世紀「最大のスピリチュアル教師」だと確信したと述べた。ロビンズは自分が弟子ではないと強調しながらも、さらに「悪質なプロパガンダや偏った報告を多く読んだことで、ラジニーシは歴史上最も中傷された人物の一人ではないかと疑った」と語っている[162]ジャプジ英語版として知られるシーク教の経典のOshoの解説は、インドの元大統領ギャーニー・ジャイル・シンによって、入手可能なものの中で最高であると称賛された[78]。また、作家のファルク・ドーンディ英語版は2011年にコラムの中で、映画スターのカビール・ベディ英語版がOshoのファンであり、その著作を「彼が出会ったインド哲学の最も崇高な解釈」と見なしていると語った[78]

ドーンディ自身はベディとは見解が異なると述べ、Oshoは「インドが生んだ最も賢く知的な信用詐欺師(confidence trickster)だ。彼のインドの文献の『解釈』は、特に幻滅した欧米人の一世代に向けられたもので、彼らは『ケーキを残しておき、かつ食べる(矛盾する二つのことを両立させ、いいとこ取りをする)』ことを望み(おそらく今も望んでいる)、そして同時に、古代の智恵と融合した科学的な知恵によればケーキを食べることが最高の美徳だ、と言い張っている。彼の講話は、ショーペンハウアーの哲学や、シャンカラアドヴァイタ・ヴェーダーンタ一元論的な根本原理を理解するのが難しい人々のために作られている。マスター・オショーがヴェーダーンタや、スピノザ十字架の聖ヨハネの真髄を読み、消化したことは大いにあり得るが、彼の『哲学』についての解説を読んでもそれは伝わってこない。そのテキストや講話は説教(訓話)でいっぱいで、日々の幸福や心の平穏へと導くものであるように思える。」と評している[172]

実践が含む暴力性について

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最初のプネーのアシュラムのモデルともなったエサレン協会の創始者のひとりディック・プライス英語版は、Oshoの著作を読んで熱狂的に傾倒し、Oshoからサニヤシン名をもらうほどだったが、2週間プネーに滞在して、対面セッション中に骨折や怪我を目撃し、アシュラムで起きている暴力行為に懸念と衝撃、恐怖を表明した[123]。またプライスは、グルに対する無条件の帰依は、エサレンの民主主義と反権威主義的リーダーシップへの取り組みと真逆であり、アシュラムの権威主義的な雰囲気を激しく嫌うと述べた[123]

ヨーガにおける不適切な性的接触英語版に関する在野の研究者マシュー・レムスキー英語版は、ドイツ人映画監督が隠しカメラで撮影したダイナミック・セラピーの様子(「ワイルド・ワイルド・カントリー英語版」第2話収録)について、スピリチュアルなカタルシスを装って正当化された身体的・性的暴力であると評している[173]

死後の著作権・商標に関する法的紛争

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Oshoの死後そのコミュニティは分裂していき、プネーを中心とし主に非インド人メンバーが率いるOsho インターナショナル財団(OIF、現在の拠点はチューリッヒ)と、ニューデリーを中心とし主にインド人メンバーが率いるオショー・ディヤーナ・マンディール(Osho Dhyan Mandir)とそのウェブサイト Oshoworld.com を主とするライバルグループに分かれ、Osho という名前の権利をめぐって大規模な法廷闘争が繰り広げられ、運動における国家主義的かつグローバルな緊張が浮き彫りになった[72]

Oshoが東洋のスピリチュアルな伝統である瞑想を著作権商標で保護することを明確に否定したにもかかわらず、彼の死後すぐに彼が提唱した瞑想は著作権で保護され、使用権と利益をめぐる様々な争いにつながった[72]。1992年以降、Osho インターナショナル財団はOshoの名前に関連するすべての書籍、テープ、瞑想、その他の資料についてアメリカで商標登録を出願し始め、今日彼らは、Oshoの作品のすべての著作権と、さまざまな実践のすべての商標、デザイン、ロゴの唯一の登録された所有者であると主張し、この動きはオショー・ディヤーナ・マンディールを主とするライバルのOshoグループとの一連の法的紛争につながった[72]

Osho インターナショナル財団は2000年にオショー・ディヤーナ・マンディールを相手取り、「Osho World(www.oshoworld.com)」というウェブサイトのドメイン名にOshoという名前を使用したことで訴えたが、これは、「Osho」という単語が個人名なのか、仏教の師を意味する日本語の一般的な称号なのか、また宗教的な称号自体が知的財産になり得るのかという、大きく根深い問題を提起することになった[72]。オショー・ディヤーナ・マンディールは、瞑想を著作権で保護し商標登録することを否定したOshoの言葉を引用し、宗教的思想を著作権で保護したり商標登録したりするという考えを否定したが、Osho インターナショナル財団は、Oshoは頻繁に矛盾した発言をしており、この発言を彼の最終的な結論ということはできず、商標と著作権はOshoの教えの濫用を防ぐためにあると反論した[72]

この争いは全米仲裁フォーラム(NAF:The National Arbitration Forum)に持ち込まれた[72]。全米仲裁フォーラムは、Osho自身は知的財産権問題にほとんど関心がなく、この称号を商業的利益のために利用していないと指摘し、団体がOshoのような名称を商標登録することを認めるとキリストや仏陀などの他の宗教の称​​号の商標登録にも道が開かれるとも述べ、オショー・ディヤーナ・マンディールに有利な判決を下した[72]

この判決を受け、同年後半に、Osho コミュニティ内の反体制派や、プネーのコミュニティの在り方を「攻撃的で支配的」だと批判し事実上追放された人々が、オショー・フレンズ・インターナショナル (Osho Friends International:OFI) という新しいグループを結成した[72]。彼らはOshoの教えの露骨な商業化を拒否し、その作品とテクニックは世界中で自由に利用できるべきだと主張し、彼のメッセージは全人類のためのもので、知的財産権の主張によって束縛されることはないと主張し、「OSHO : すべての人の生得権 - 誰の著作権でもない(OSHO: Everybody’s birthright—nobody’s copyright.)」をスローガンに掲げ、Oshoの名前の商標、オショー・クンダリニー瞑想やオショー・リバランシングなどの技法の商標取り消しのために、米国特許商標庁 (USPTO) に請願書を提出した[72]。米国特許商標庁は2009年、前述の超越瞑想(TM)を取り上げたOshoの風刺的な批評を引用し、普及のためにメンバーが世界中にセンターを設立し、Oshoの名前を使用することをOshoは許可していたと認め、Osho インターナショナル財団に不利な判決を下し、Oshoという名前は一般的な形容詞であり、競合他社が自由に使用できるべきであると判断した[72]。また米国特許商標庁は、ポール・ヒーラス英語版の著書『The New Age Movement(ニューエイジ運動)』などの学術作品も調査し、学術界では「Osho」を「宗教的、瞑想的な運動であり、商標ではない。(religious and meditative movement and not as a trademark.)」一般的な意味で言及していると指摘している[72]

しかし、Osho インターナショナル財団は、アメリカの2つの主要団体の判決で否定されたにもかかわらず、 Oshoの名称、技法、関連する道具類の世界的な流通に対する権利を主張し続けている[72]。Osho.comのWebサイトでは2016年時点で、著作権および商標権を変わらず維持しており、これらの判決はアメリカのみに影響し、Oshoの名称が引き続き保護されている他の国には影響しないと主張している[72]

2009年の米国特許商標庁の判決から間もなくして、Osho インターナショナル財団は、Oshoの名前とテクニックを宣伝する傘下外のグループのFacebookページに対し、著作権侵害でFacebookに告発しページを削除させることを繰り返した[72]。サンフランシスコの独立系のOsho センターはブログで、Osho インターナショナル財団はアメリカでの敗訴の後、登録に反対するサニヤシンが十分にいない中国やベネズエラなどで商標を登録し、インターネットは全世界に広がっているのだから、いくつかの地域で有効な商標登録があるのだからインターネット上のビジネス名にOshoのを使うことはできないと主張しており、また、FacebookはOshoを人物ではなく単に商標として扱っていると、Osho インターナショナル財団の行いとFacebookの判断の不当さを訴えた[72]

また、Oshoリゾートの資産をめぐり、プネーのセンターを運営する少数のサニヤシン(主に非インド人)の経済的利益のために資産が売却・譲渡されているという多くの批判がある[72]

Osho インターナショナル財団による遺言状の偽造疑惑

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2010年にオショー・ロータス・コミューン(ドイツ、ケルン。ヨーロッパ最大のOsho瞑想センターであるOsho UTA インスティテュートの親組織)は、欧州共同体商標意匠庁(OHIM:the Office for Harmonization in the International Market)に請願書を提出し、アメリカの局に倣ってOsho インターナショナル財団の商標権の主張を無効とするよう求めた[72]。オショー・ロータス・コミューンは、Osho インターナショナル財団の主張はOshoの遺産を守るためのものではなく、主に権力、すなわち彼の莫大で利益の多い遺産の支配に関するものであるとはっきり述べ、Osho インターナショナル財団の主張は、Oshoの崇高な目的の中心である自由と、制度的および官僚的支配に対する彼の根本的な拒絶に真っ向から反していると主張した[72]

これに対しOsho インターナショナル財団は、商標の独占所有の主張を裏付けるために、1989年10月15日に署名されたOshoの「遺言状」とされる文書と、弁護士による宣誓供述書を提出した[72]。これは1ページに満たない非常に短い文書だったが、「私、Oshoは、現在または将来私が所有するあらゆる形式のあらゆる権利、権原(所有権、出版権、関連する権利を含むが、これらに限定されない)を「ネオ・サニヤス・インターナショナル財団」に譲渡し、遺贈する。これには、現在または将来、あらゆる形式で公開される私のすべての作品が含まれる。(I, Osho … hereby devise and bequest any and all right, title in any form owned by me, now or in the future, including but not limited to all ownership, publishing or related rights, to all my work, published to date or in the future, in any form, to “Neo Sannyas International Foundation.“)」という文章が含まれていた[72]

ネオ・サニヤス・インターナショナル財団は、Osho インターナショナル財団(1990年)の前身であり、この文書が本物であれば、世界中のすべての Osho 関連資料の権利がOsho インターナショナル財団の単独管理下に移譲されることになる[72]。しかしすぐに、この文章の署名が1976年の別の文書の署名と全く同じであるという疑惑が生じ、イタリアのボローニャ、オーランガバード、ニューデリーの複数の独立した専門家によって、顕微鏡レベルで精査され、「遺言状」の署名は1976年の手紙の署名と同じであると結論付けられ、それは文章が偽造であることを意味した[72]

2013年12月、オショー・フレンズ・インターナショナルを代表しヨーゲッシュ・タッカーが、「遺言状」の署名は利権目的で偽造されたものであると主張し、告訴状を提出した[72]。その直後、プネー警察はアシュラムの管理者に「遺言状」の原本を提出するよう求める通知を出したが、2014年1月、Osho インターナショナル財団は「遺言状」をヨーロッパの裁判手続きから取り下げた[72]。Osho インターナショナル財団を批判する人々は、これは「遺言状」偽造のダメージを最小限にするための必死の行動で、これ自体が偽造の証拠であると見ている[72]。現在多くの批評家は、「遺言状」は偽造されたものだと考えている[72]

ドキュメンタリー

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Osho達の驚異的な成功と破滅を追ったNetflixのドキュメンタリー・シリーズ「ワイルド・ワイルド・カントリー(Wild Wild Country)」(全6話)が、2018年に第70回エミー賞5部門にノミネートされ、米国内で注目を集めた[174]。Oshoの思想や教えには踏み込まず、関係者を追う形をとっている[174]

映画とテレビを評価統計するサイト「Rotten Tomatoes」では、公開半年時点でのスコアは98%と高い[174]。RogerEbert.comの評論家のニック・アレンは、本作を「善と悪の複雑な定義を観客に問いかける、奥深く魅惑的な作品」と絶賛した[174]ニュー ・リパブリック英語版の編集長で、『The Rajneesh Chronicles: The True Story of the Cult that Unleashed the First Act of Bioterrorism(ラジニーシ黙示録:アメリカで最初のバイオテロを起こしたカルトの真実の物語)』の著者ウィン・マコーマック英語版は、この映画は、膨大な量のニュース映像アーカイブを調査、発見、選択し、一貫した枠組みに編集するという大変な仕事を成し遂げ、地域住民への詳細なインタビューを行い、可能な限り双方の代表者に意見を述べさせており、過去のプロパガンダ的な映画よりかなり良作だと評価している[175]

一方マコーマックは、本作は教団が起こした問題と真の脅威の範囲に向き合うことには失敗していると評している[175]。マシュー・レムスキーは、田舎者対侵略者の戦いを描いたポップで魅力的な娯楽作品に過ぎず、「客観性」を称賛する多くのレビューがあるが、実際のところ問題の多くは取り上げられていないと述べている[173]

OSHO インターナショナル財団は公式サイトで、本作で取り上げられたOsho達の破滅は、本質的にはOshoのヴィジョンの妨害を目指すアメリカ政府の謀略によるもの等と反論している[official 3]

創作

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  • インド系アメリカ人作家アヴニ・ドーシ英語版のデビュー作で、2020年ブッカー賞最終候補作『母を燃やす英語版』(Burnt Sugar)では、結婚しプネーで抑圧された生活を送っていたが自分の欲求に従って生きることを選びアシュラムに飛び込んだ母と、生後まもない頃に母にアシュラムに連れていかれ、ここで7歳まで母がいるのに世話をしてもらえない生活を強いられた娘の葛藤が描かれた[176]。作者の母方の家族はOshoのプネーのアシュラムと関係があり、本作はそれにインスピレーションを受けた[177]。ガーディアン紙は、アシュラムのグルのモデルはOshoであると指摘している[176]

日本語書籍

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講話録

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バグワン・シュリ・ラジニーシ
  • 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳(星川淳)訳 (めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
  • 『究極の旅―バグワン・シュリ・ラジネーシ、禅の十牛図を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
  • 『草はひとりでに生える』マ・アナンド・ナルタン(中沢藤胡)訳(ふみくら書房、1978年)
  • 『Tao 永遠の大河―バグワン・シュリ・ラジネーシ、老子を語る(1,2,3,4)』 スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1979-1982年、河出書房新社、2014年)
  • 『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジニーシとの対話 ダルシャン日誌』(ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『あなたが死ぬまでは』マ・アナンド・ナルタン訳 (ふみくら書房、1980年)
  • 般若心経―バグワン・シュリ・ラジニーシ、色即是空を語る』スワミ・プレム・プラブッダ訳 (めるくまーる、1980年)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・パブリケーション・ジャパン、1980年)
  • 『瞑想―祝祭の芸術』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
  • 『愛の錬金術―隠されてきたキリスト(上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳(めるくまーる、1981年)
  • 『セックスから超意識へ』スワミ・アナンド・ニラーラ訳 (ラジニーシ・パブリケーションズ・ジャパン 1982年)
  • 『虚空の舟―荘子 (上・下)』マ・アナンド・ナルタン訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン 1982年)
  • バウルの愛の歌 (上・下)』スワミ・サンギート訳(めるくまーる 1983年・1984年)
  • 『オレンジ・ブック―バグワン・シュリ・ラジニーシの瞑想テクニック』スワミ・トシ・ヒロ訳 (ホーリスティック・セラピー研究所、1984年、めるくまーる、1995年)
  • 『ダイヤモンド・スートラ-バグワン・シュリ・ラジニーシ金剛般若経を語る』スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳(瞑想社、1986年)
  • 『新人権宣言―バグワン・シュリ・ラジニーシ基本的人権を語る』スワミ・ヤスヒデ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1986年)
  • 『英知の辞典』スワミ・アナンド・ソパン 訳(めるくまーる、1996年)
  • 『魂への犯罪―バグワン・シュリ・ラジニーシ聖職者と政治家を語る』(イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、1987年)
  • 一休道歌 上』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
  • 『一休道歌 下』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1988年、ISBN 4-8397-0037-0)
  • マイトレーヤ―バグワン・シュリ・ラジニーシ、ザ・ブッダ・ロード・マイトレーヤ』 スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1988年)
  • 『大いなる挑戦―黄金の未来』創造的科学と芸術と意識の世界アカデミー日本準備委員会 監修(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『ニュー・ウーマン誕生 : A new vision of women's liberation』(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1988年)
  • 『信心銘』スワミ・パリトーショ訳 (禅文化研究所、1989年、ISBN 4-88182-073-7
  • 『ゴールデン・チャイルドフッド―光輝の年代 シュリ・ラジニーシ幼年期を語る』スワミ・パリトーショ訳 (ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン、1989年)
  • 『新人類―未来への唯一の希望』 スワミ・パリトーショ、スワミ・キャル訳 (瞑想社、1989年)
  • 『アイ・アム・ザ・ゲート 秘儀伝授と弟子の意味』 武捨宏昭訳 (パブフル、2020年)
OSHOラジニーシ
  • 『ア・カップ・オブ・ティー―オショー・ラジニーシ初期書簡集』スワミ・プレム・プラブッダ、スワミ・アナンド・ソパン訳 (めるくまーる、1989年)
  • 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
  • 坐禅和讃―和尚ラジニーシ、白隠禅師を語る』スワミ・プレム・ラジャ、スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳 (瞑想社、1990年)
  • 臨済録』スワミ・アナンド・モンジュ訳 (めるくまーる、1991年、ISBN 4-8397-0061-3)
  • 『未知への扉―和尚、秘教グループを語る』 スワミ・アナンド・モンジュ訳 (瞑想社、1992年)
和尚/Osho/和尚
  • 『モジュッド 説明できない生を生きた人』マ・アンタール・コマルタ編、スワミ・アナンド・ニラーラ訳(和尚エンタープライズジャパン、1990年)
  • 『反逆のスピリット』スワミ・デヴァ・マジュヌ、マ・デヴァ・ヨーコ他訳 (めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
  • 『狂人ノート』マ・アナンド・ナルタン訳、マ・アナンド・プシュポ編 (和尚エンタープライズジャパン、1991年、ISBN 4-900612-08-1)
  • 『私が愛した本〛スワミ・パリトーショ訳 (Oshoエンタープライズジャパン、1992年)
  • 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道』(和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 道元―その探求と悟りの足跡』和尚 講話、スワミ・アンタール・ガータサンサ訳 (和尚エンタープライズジャパン、1992年)
  • 『神秘の次元』(日本ヴォーグ社、1992年)
  • 『タントラ―セックス、愛、そして瞑想への道』 和尚 講話、スワミ・アナンド・チダカッシュ訳 (和尚コーシャ瞑想センター、1992年)
  • 『新瞑想法入門』スワミ・デヴァ・マジュヌ訳 (瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2
  • 『これこれ千回もこれ―[要曖昧さ回避]のまさに真髄』和尚 講話、スワミ・アナンド・ソパン訳 (和尚エンタープライズジャパン、1993年)
  • 『内なる宇宙の発見―呼吸・夢の超越・やすらぎ <タントラ秘宝の書1>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)訳 (市民出版社、1993年)
  • 秘教の心理学』スワミ・プレム・ヴィシュダ訳 (瞑想社、1994年)
  • 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
  • 『ノーマインド―永遠の花々』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳、スワミ・アナンド・ソパン照校 (壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
  • 『源泉への道―中心へ向かう・ハートの開発 <タントラ秘宝の書2>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • 第三の眼[要曖昧さ回避]―見る技法・ブッダの愛 <タントラ秘宝の書3>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1994年)
  • ダンマパダ』 沢西康史訳(瞑想社、1994年)
  • ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
  • 『沈黙の音―音を対象とした瞑想技法 <タントラ秘宝の書4>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
  • 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6)
  • 『覚醒の深みへ―エネルギーの上昇 <タントラ秘宝の書6>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1995年)
  • 『光と闇の瞑想―存在への回帰 <タントラ秘宝の書7>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1996年)
  • 『奇跡の探求―覚醒の炎 <和尚初期瞑想キャンプの講話1>』 Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社 1996年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『生の神秘-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書9>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1997年)
  • 『空の哲学-ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書10>」スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1998年)
  • 『禅宣言』(市民出版社、1998年)
  • イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』スワミ・ボーディ・マニッシュ訳 (市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
  • 『奇跡の探求―七身体の神秘 <和尚初期瞑想キャンプの講話2>』和尚 講話、和尚サクシン瞑想センター訳 (市民出版社、1998年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『私の愛するインド―輝ける黄金の断章』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・ジヴァン・アナンディ照校 (市民出版社、1999年)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
  • 黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
  • 『ユニオ・ミスティカ』 (市民出版社、1999年)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、1999年)
  • 『タントラの変容―サラハの王の歌〈タントラ・ヴィジョン2〉』和尚 講話、マ・アムリッタ・テジャス 訳(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4)
  • 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
Osho
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2000年)
  • 『死のアート』 (市民出版社、2001年)
  • 『エンライトメント―神秘家・アシュタヴァクラ ただひとつの変革』スワミ・アンタール・ソハン訳 (市民出版社、2003年)
  • 『シャワリング・ウィズアウト・クラウズ (市民出版社、2003年)
  • 『永久の哲学1』 (市民出版社、2004年)
  • 『ラスト・モーニング・スター』 (市民出版社、2004年)
  • 『インナー・ジャーニー―内なる旅』マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2005年)
  • 『そして花々が降りそそぐ』 マ・プレム・プラバヒ、Oshoサクシン瞑想センター訳(市民出版社、2005年)
  • 『究極の錬金術 1―古代の奥義書ウパニシャッドを語る』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2006年)
  • 『永久の哲学2―ピュタゴラスの黄金詩2』(市民出版社、2006年)
  • 『サラハの歌<タントラ・ヴィジョン1>』(市民出版社、2006年)
  • 『究極の錬金術 2―人間―永遠と永遠の架け橋』 スワミ・ボーディ・イシュワラ訳 (市民出版社、2008年)
  • 『魂の科学-パタンジャリヨーガ・スートラ澤西康史訳 (LAF瞑想社、2007年)
  • 『こころでからだの声を聴く―ボディ・マインド・バランシング』 マ・アナンド・ムグダ訳 (市民出版社、2007年)
  • 『神秘家の道-珠玉の質疑応答録』 スワミ・パリトーショ訳、スワミ・アドヴァイト・パルヴァ, マ・ギャン・シディカ照校 (市民出版社、2009年)
  • 『探求の詩』 (市民出版社、2011年)
  • 『魂のヨーガ』 (市民出版社、2012年)
  • 『アティーシャの知恵の書 上』 (市民出版社、2012年)
  • 『アティーシャの知恵の書 下』 (市民出版社、2013年)
  • 『愛の道-神秘家・カビールを語る』 スワミ・プレム・グンジャ訳、マ・アナンド・ムグダ, マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2013年)
  • 『Joy 喜び』 山川紘矢山川亜希子訳 (角川書店、2013年)
  • 『草はひとりでに生える』(OEJブックス、2013年)
  • 『究極の旅』(河出書房新社、2013年)
  • 『死ぬこと生きること』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ(宮川義弘)訳、マ・アナンド・ムグダ、マ・ギャン・シディカ照校(市民出版社、2014年)
  • 『存在とひとつに―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書8>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1014年)
  • 『炎の伝承1』(市民出版社、2014年)
  • 『Courage 勇気』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2014年)
  • 『死について41の答え』OSHO 講話ほか 伊藤アジータ 訳、スワミ・アナンド・ニラーラ 照校 (OEJブックス 出版、めるくまーる 発売、2015年)
  • 『炎の伝承2』(市民出版社、2015年)
  • 『愛の円環―宇宙的オーガズム <タントラ秘宝の書5>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、2015年)
  • 『内なる宇宙の発見―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ <タントラ秘宝の書1>』スワミ・アドヴァイト・パルヴァ訳 (市民出版社、1015年)
  • 『真理の泉』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳(市民出版社、2016年)
  • 『奇跡の探求2』(市民出版社、2016年)
  • 『Intuition 直観』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2016年)
  • 『瞑想の道』(市民出版社、2017年)
  • 『Creativity 創造性』 山川紘矢・山川亜希子訳 (KADOKAWA、2017年)
  • 『夜眠る前に贈る言葉』 (市民出版社、2018 年)
  • 『朝の目覚めに贈る言葉』 (市民出版社、2018年)
  • 『ブッダ―最大の奇跡 <超越の道シリーズ1>』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳、マ・ギャン・プーナム照校(市民出版社、2019年)
  • 『瞑想録―静寂の言葉』 中原邦彦・庄司純訳 (季節社、2019年)
  • 『あなたの魂を照らす60の物語』 Amy Okudaira訳 (大和書房、2019年)
  • 『心理学を超えて1』 スワミ・ボーディ・デヴァヤナ訳 (市民出版社、2019年)
  • 『存在の詩 TANTRA THE SUPREME UNDERSTANDING』新装復刊 OSHO 星川淳訳 2020年 めるくまーる)
  • 『心理学を超えて 2 』(市民出版社、2020年)
  • 『新瞑想法入門』(市民出版社、2021年)

解説

[編集]
  • 玉川信明著 『和尚の超宗教的世界 トランスパーソナル心理学との相対関係』(社会評論社、2001年)
  • 玉川信明著 『和尚、禅を語る』(社会評論社、2002年)
  • 玉川信明編著 『和尚、性愛を語る』 (社会評論社、2003年)
  • 玉川信明編著 『和尚、聖典を語る』 (社会評論社、2003年)

雑誌

[編集]
  • 『Rajneesh times international(ラジニーシ・タイムズ・インターナショナル)』イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン株式会社 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン、Vol.1(20 Dec. 1987)~15号(1 Oct. 1989)
  • 『Osho times international(和尚タイムズ・インターナショナル)』 和尚ジャパン 編、イア・ラジニーシ・ネオ・サニヤス・コミューン (16号-17号) → Oshoイア・ネオ・サニヤス・コミューン (18/19号-88号) → オージェーインスティテュート (89号-95号)、刊行終了
  • 月刊「ムー」1983年9月号 No.34、10月号 No.35、学習研究社「OSHO、秘教グループを語る」スワミ・アナンド・モンジュ訳

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ OSHOオショー和尚とも。
  2. ^ バグワン・シュリ・ラジネーシとも。
  3. ^ 宗教学者の井上順孝は「ラジニーシ運動は、ラジニーシ・チャンドラ・モハンによって創始されたインド系の宗教である」と述べている[4]。南アジアの研究者中島岳志は「オショー・ラジニーシ運動」を「新興ヒンドゥー教団」としている[5]
  4. ^ 宗教学者の伊藤雅之は、「人間の意識の最終的段階に達し光明を得たという。」と表現している[14]
  5. ^ 引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年
  6. ^ ジュリエット・フォアマン『Bhagwan:Twelve Days that Shook the World(バグワン・世界を揺るがした12日間)』、オーストラリア人弁護士スー・アップルトン著『Was Bhagwan Shree Rajneesh Poisoned by Ronald Reagan's America?(バグワン・シュリ・ラジニーシはレーガン政府のアメリカに毒を盛られたのか?)』は、Oshoが毒を盛られたという主張に賛成し検証した書籍である[関係者 2][要ページ番号]

出典

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一次資料

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本人著作
[編集]
  1. ^ a b c d e f g Oshoラジニーシ. I AM THE GATE 未知への扉. めるくまーる 
  2. ^ OSHO マ・アナンド・ムグダ訳. こころでからだの声を聴く: ボディ・マインド・バランシング. 市民出版. p. 243 
  3. ^ 和尚 著、スワミ アナンド ソパン 訳『空っぽの鏡』壮神社、1992年11月30日、p213頁。 
自社資料
[編集]
  1. ^ Name-change to Osho” [Oshoへの改名]. Osho World. 2020年5月30日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ Trademark Information - OSHO Trademarks(商標情報 - OSHO 商標)”. OSHO International Foundation (2012年2月20日). 2020年5月13日閲覧。
  3. ^ ワイルド・ワイルド・カントリーの背後にあるストーリー”. Osho International Foundation. 2021年5月5日閲覧。
関係者
[編集]
  1. ^ マ・プレム・シュンニョ (1994年9月21日). 和尚と過ごしたダイアモンドの日々. 和尚エンタープライスジャパン株式会社 ---p165-p166
  2. ^ a b c d e f g h i j マックス・ブレッカー (2005年10月15日). OSHO:アメリカへの道 砂漠の実験都市・ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相. 和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売 
  3. ^ ヴァサント・ジョシ 宮川義弘訳. 異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡. 市民出版社 
  4. ^ a b c ヴァサント・ジョシ 宮川義弘訳. 異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡. 市民出版. p. 265 
  5. ^ a b c d e f g ヴァサント・ジョシ 宮川義弘訳 (2018年10月29日). 異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡. 市民出版. p. 385-387 

参考文献

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書籍・論文

関連文献

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書籍
  • ヴァサント・ジョシ『異端の神秘家 OSHO・反逆の軌跡』宮川義弘 訳 市民出版社 2018年
  • ナルタン(日家ふじ子) (2016). 自分という名の迷宮 インナーラビリンス. めるくまーる 
  • マックス・ブレッカー『OSHO:アメリカへの道 - 砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』「OSHOアメリカへの道」プロジェクト訳、和尚アートユニティ 出版、めるくまーる 発売、2005年
  • Osho (2004), Meditation: the first and last freedom, St. Martin's Griffin, ISBN 978-0-312-33663-9 
  • マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々: ザ・ニュー・ダイアモンド・スートラ』 マ・プレム・ソナ訳、和尚エンタープライズジャパン、1994年
  • Milne, Hugh (1986), Bhagwan: The God That Failed, London: Caliban Books, ISBN 1-85066-006-9 
    • ヒュー・ミルン『ラジニーシ ― 堕ちた神』 鴫沢立也訳、第三書館 、1991年(再版)ラジニーシの側近でのち離反した人物の回想録
  • Joshi, Vasant (1982), The Awakened One, San Francisco, CA: Harper and Row, ISBN 0-06-064205-X 
    • ヴァサント・ジョシ『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』スワミ・プレム・プラブッダ訳、めるくまーる、1984年

関連項目

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  • バイロン対ラジニーシ財団裁判英語版

外部リンク

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Osho
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