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高野長英

高野 長英
たかの ちょうえい
高野長英像(椿椿山筆)
誕生 1804年6月12日 
奥州水沢
死没 (1850-12-03) 1850年12月3日(46歳没)
江戸青山百人町
職業 蘭学者
代表作 『戊戌夢物語』『わすれがたみ』
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高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日1804年6月12日〉- 嘉永3年10月30日1850年12月3日〉) 江戸時代後期の医者蘭学者通称は悦三郎、は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は伯父・高野玄斎。江戸幕府異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け、死去した。1898年明治31年)7月4日、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』・『わすれがたみ』・『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。

生涯

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誕生

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陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達家家臣・後藤実慶、侍医高野玄斎の妹美代の三男として生まれる[1]。養父の玄斎は江戸杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文化9年(1812年)、父後藤実慶死去。文化8年(1813年)、母方の叔父高野玄斎の養嗣子となる[2]。 文政3年(1820年)17歳、実兄後藤堪斎に同行して江戸に行き、杉田伯元(杉田玄白の養子)の門に入る[3]。文政4年(1821年)、杉田塾を辞し、吉田長淑の内弟子となり、オランダ医学をおさめる[3]。文政5年(1822年)、吉田長淑に認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。同年秋、日光、筑波山等において採薬に従事、また蘭語文法の研究を始める[3]

シーボルト事件

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文政8年(1825年)22歳、長崎に留学してシーボルト鳴滝塾医学蘭学を学ぶ[4]。文政9年(1826年)、蘭語論文をシーボルトに提出、ドクトルの称号を受ける[4]。 文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英は長崎から逃れて身を隠した[注 1]。文政10年(1827年)に義父玄斎が死去したため、長英は帰郷を求められていたが、天保元年(1830年)、家督を捨て他家に禄仕しないことを誓う[5]

渡辺崋山との出会い

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天保元年(1830年)、江戸に戻り、麹町貝坂で町医者として大觀堂学塾(蘭学塾)を開業する[5]。天保2年(1831年)、郷里から母を迎える。天保3年(1832年)、日本最初の生理学書『西説医原枢要』第1巻を刊行。同年、近くに住んでいた三河田原藩重役渡辺崋山と知り合う。崋山の依頼で、小関三英鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった[注 2]

天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。早ソバジャガイモの栽培をすすめる『二物考(勧農備荒二物考)』を執筆、崋山が挿絵を描いた[6]

鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた。それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、長英を階段から突き落としたが、長英は「GEVAARLIJK!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ、という逸話がある。[要出典]

蛮社の獄

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旧高野家離座敷(さいたま市緑区)
南青山の「高野長英先生隠れ家」の碑

天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。天保9年(1838年)、『戊戌夢物語』を著し幕府の攘夷策に反対する。

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。同年5月、長英も幕政批判のかどで捕らえられ[注 3]。同年12月、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監[7]牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった[要出典]。獄中で『わすれがたみ』を著し、無実を主張する。

弘化元年(1844年6月30日、牢屋敷の火災による「切り放ち」[注 4]に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である[8]。切り放ち後、長英は再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた[9]。高野家離座敷は文化財[10]として公開されている。後に、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩伊達宗城に庇護され、嘉永元年四月から家老櫻田佐渡の別邸に潜伏し、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、砲台適地の調査、砲台図面の作成、藩士への洋学教授、宇和島藩の兵備の洋式化等に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したとされる。

しかし、この生活も長くは続かず、嘉永二年初春、宇和島滞在が幕府に露見したとの情報が入り、江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。このとき、江戸では既に長英の人相書きが出回っていたことと、医者になれば人と対面する機会が多くなり、誰かに見破られることも十分に考えられたため、逃亡生活の最中に硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。[要出典]

麻布宮村町(現在の東京・元麻布)、郷里水沢、麻布本村町(同・南麻布)と所を変え妻子と共に隠棲していたが、嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の南青山5丁目)に潜伏していたところを何者かに密告された。南町奉行遠山景元配下の同心や捕方らに踏み込まれて捕縛されて自刃した[8][注 5]

評価

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  • 勝海舟 「高野長英は有識の士だ。その自殺する一ヶ月ばかり前に横谷宗與の紹介で、夜中におれの家へ尋ねて来て、大いに時事を談論して、さて帰り際になって、おれに言うには、拙者は只今潜匿の身だから、別に進呈すべき物もないけれど、これはほんの志ばかりだといって、自分が謄寫した徂徠の『軍法不審』を出してくれた」[11]

故郷水沢での長英

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高野長英誕生の地の碑(岩手県奥州市水沢)

岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、長英は三偉人(高野長英・後藤新平斎藤実)の一人として扱われている。また、小学校では良く総合的な学習の時間で取り上げられ、その生涯・功績を学んでいる。また、平成16年(2004年)には高野長英の生誕200年ということで、水沢では色々なイベントが行われた。

1971年(昭和46年)に岩手県奥州市水沢中上野町に奥州市立高野長英記念館が設立された[12]

著作文献

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  • 『高野長英全集』(全6巻) 第一書房1978年 - 1982年。順に「医書1」「医書2」「兵書」「雑書」「砲家必読」「蘭文」。
  • 『華山・長英論集』岩波書店〈岩波文庫〉、1978年8月16日。ISBN 4003302516 佐藤昌介校注。
  • 日本の名著25 高野長英ほか』 佐藤昌介責任編集、中央公論社、現代語訳。

伝記

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高野長英が登場する作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 間もなく豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。[要出典]
  2. ^ わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロックヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。[要出典]
  3. ^ 奉行所に自ら出頭したという説もある。(論集 1978, p. 371)
  4. ^ 火災時には避難目的での一時釈放が制度化されていた。三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すと言い渡された。石出帯刀も参照。
  5. ^ 何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという説もある(現場にいたある捕手役人の覚書による)。しかし、奉行所に提出された報告書によれば、長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。当時の奉行所としては、正式な取り調べもせずに容疑者を死亡させた不祥事を隠蔽する目的で虚偽の報告書を作成させた可能性も否定はできない。[要出典]

出典

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  1. ^ 論集 1978, p. 364.
  2. ^ 論集 1978, p. 365.
  3. ^ a b c 論集 1978, p. 366
  4. ^ a b 論集 1978, p. 367
  5. ^ a b 論集 1978, p. 368
  6. ^ 二物考(勧農備荒二物考)”. 奥州市高野長英記念館. 2024年1月22日閲覧。
  7. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月2日閲覧。 
  8. ^ a b 論集 1978, p. 372
  9. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日、182頁。ISBN 4040011104 
  10. ^ 旧高野家離座敷 さいたま市
  11. ^ 「海舟全集 第十巻」
  12. ^ 高野長英記念館 、2020年3月30日閲覧。

参考文献

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  • 田中弘之 『「蛮社の獄」のすべて』(吉川弘文館、2011年)

関連項目

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外部リンク

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高野長英
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