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長谷川宣以

 
長谷川 宣以
時代 江戸時代
生誕 延享2年(1745年[注釈 1]
死没 寛政7年5月19日[注釈 2]1795年7月5日
改名 銕三郎(幼名)、宣以
別名 平蔵(通称
戒名 海雲院殿光遠日耀居士
墓所 東京都新宿区須賀町戒行寺
幕府 江戸幕府 西丸書院番、進物番、西丸徒頭先手弓頭火付盗賊改役
氏族 長谷川氏
父母 父・長谷川宣雄、母・戸村品左衛門の娘?
大橋親英の娘
宣義(長男)、正以(二男)、
娘(河野弘道室)、娘(渡辺久泰室)、娘
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戒行寺の長谷川平蔵宣以供養之碑。

長谷川 宣以(はせがわ のぶため)は、江戸時代中期の旗本寛政の改革期に火付盗賊改役を務め、人足寄場を創設した。通称平蔵へいぞう

長谷川平蔵の名は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平[注釈 3]として、日本の時代小説時代劇ファンに知られている。

生涯

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延享2年(1745年)[注釈 1]、400旗本である長谷川平蔵宣雄の長男として生まれる。母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には「某氏」と記されているが、研究家の滝川政次郎・釣洋一・西尾忠久は宣雄の領地の農民・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている[注釈 4]

幼名銕三郎てつさぶろう、あるいは銕次郎てつじろう[注釈 5](銕は鉄の異体字)。

明和5年(1768年)12月5日、23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治御目見し、長谷川家の家督相続人となる。時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英[注釈 6]の娘と結婚し、明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。

青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある[注釈 7]。父の宣雄は小十人頭先手弓頭[注釈 8]を経て安永元年(1772年)10月に京都町奉行の役に就き、宣以も妻子と共に京都に赴く。安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去した。宣以は父の部下の与力・同心たちに「まあ皆さんがんばってください。私は江戸で英傑といわれるようになってみせる」と豪語[注釈 9]して江戸に戻った。同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継いで通称を父と同じ平蔵に改め、小普請組支配長田備中守組に入った。

小普請時代の宣以は、父が貯めた金も使い果たし、遊廓へ通いつめて当時はやりの「大通」といわれた粋な服装をしていたと伝えられるが、家督を継承した翌年の安永3年(1774年)には400石取りの旗本が幕府の役職に初めて就く場合の一般的なコースである両番(書院番小姓組)への番入りを果たし、西丸書院番(将軍世子の居住する江戸城西ノ丸御殿に配置された書院番)の番士に任ぜられた。翌年には儀礼の場での贈答品を周旋する進物番への出役を命ぜられる[10]

天明4年(1784年)、39歳で徒歩組の指揮官である西丸徒頭[注釈 10]、天明6年(1786年)、41歳で番方(武官)の要職である先手弓頭に任ぜられた。

天明7年(1787年)9月9日、42歳の時に宣以は老中松平定信の人事で先手頭の中から冬期に限って兼務を命じられる火付盗賊改方の当分加役となり、翌年8年(1788年)4月に加役を免じられた後、同年10月、先手頭1名が通年で兼務する本役の火付盗賊改方加役となった[11]。『よしの冊子』(松平定信の家臣・水野為長が、世情を定信に伝えるために記録した風聞書)によると、宣以の評判は悪く「長谷川宣以のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという[注釈 11]

宣以は部下の与力や同心達に厭わず酒食を与え、町方の者が盗賊を連れてくれば気前よく蕎麦などを振舞った。庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。「よしの冊子」には当時のことを長谷川はさして評判がよくなかったが町方で受けがよく、定信も「平蔵ならば」と言うようになったと書かれている[11]

寛政元年(1789年)4月、関八州を荒らしまわっていた大盗、神道(真刀・神稲)徳次郎一味を一網打尽にし、その勇名を天下に響き渡らせる。また、寛政3年5月3日1791年6月4日)には、江戸市中で強盗および婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、斬首した。逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している[注釈 12]

寛政元年(1789年)、松平定信に人足寄場設置を建言し認められ寄場建設運営の指揮を執り、江戸石川島に収容所を設け、無宿人、刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させ、その更生をはかった。

宣以は町奉行になることを望んでおり、寛政3年、町奉行が空席になると宣以が下馬評にあがったが最終的に別の者が奉行になった。宣以が奉行になれなかった理由は番方の先手頭の兼職である火付盗賊改から町奉行になるという先例がなく、町奉行になるための慣例である目付を務めた経験もなかったからだった。宣以はどれだけ出精しても出世できないことを愚痴り、「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという[11]

だが、その頼みとした定信も寛政5年(1793年)に失脚した。寛政7年(1795年)、50歳で病気となり、11代将軍・家斉からねんごろな労いの言葉を受け、「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜されたが、間もなく死去した。

東京都新宿区須賀町戒行寺に供養碑がある。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)。長谷川家の家督は嫡子宣義が継いだ。次男・正以は長谷川正満[注釈 13]の養子となった[13]

長谷川平蔵遠山金四郎屋敷跡

なお、長谷川宣以の住居跡には、数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。

人足寄場の設立

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長谷川宣以の名が歴史に残ったのは人足寄場の創設に貢献したことが大きい。後年定信が執筆した自叙伝「宇下人言」には、人足寄場の設置を次のように書いている。

  • 「かつ寄場てふ事出来たり、享保の比よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置き侍らばしかるべしなんど建議もありけれど果さず、その後養育所てふもの、安永の比にかありけん、出で来にけれどこれも果さず、ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ」

人足寄場以前、幕府は無宿人対策として宝暦9年(1759)に江戸の無宿人達を捕らえ佐渡金山の人足として送り込む制度をはじめた。しかしこの対策にも限界があった。さらに田沼の時代、安永9年(1780年)に南町奉行牧野成賢が深川茂森町に設立した無宿養育所というものを設置した。定信はこの無宿養育所について言及しているが当時は千数百人を捕らえ放り込んだが、そのうち千人以上が死んだという。定信はこれら過去の無宿人対策を参考に人足寄場の制度を考えたと思われる。そして「志ある人」を募ったところ名乗りをあげたのが長谷川宣以であった。寛政元年(1789年)そうして名乗りを上げた宣以は「寄場起立」と題した建議書を定信に提出し認められたことにより宣以が指揮をとることとなった。

人足寄場の初年度の予算は米五千俵・金五百両と限られていた。また、巷に溢れかえっている無宿の可及的速やかな掃討が望まれていた。そのためには収容所をなるべく短時日かつ安価に作り上げなければならなかった。宣以は予算節約のために地ならしなどの寄場建設作業を寄場人足にやらせ費用節約に勤しんだ。翌年、人足寄場の費用は米三千俵・金三百両と減らされた。この窮状を打破すべく宣以は定信の許可を得て官費を元に銭相場を使い寄場の費用を賄おうとした。宣以が行った銭相場を使った収入策について、日本中世・近世史を専門とする高木久史が自書「通貨の日本史」の中で説明している。高木は「(定信は)銭高への誘導も図った。実務を担ったのが火付盗賊改・長谷川宣以(平蔵)である(中略)ではなぜ平蔵は導いたのか。財政収入が目的である。銭安のときに銭を買い上げて流通量を減らし、銭高になったところで銭を支出すれば利益が出る。その利益を人足寄場の維持費にあてた」と書いている[14]

寄場内には病人小屋一棟も作られた。門、役所、見張番所を設け、対岸の江戸市街と連絡するため対岸の本湊町には舟着場が特設され、寄場には井戸も掘り、熱病を煩う者が多いため人足が希望したというので、稲荷の小祠まで建てられている。寄場内の収容者は大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞り、牡蠣殻灰製造、炭団作り、藁細工などに従事した。これらの作業に対しての賃金の内の3分の1は強制的に積み立てさせられ、出所時に生業復興資金として渡された。

人足寄場の取り組みは今でいう軽度犯罪者・虞犯者に対して教育的・自立支援的なアプローチだった。定信は人足寄場と宣以について「宇下人言」においてこう語っている「この人足寄場によって無宿人たちは自然と減り、犯罪も少なくなった。 すべて長谷川宣以の功績である。長谷川は利益を貪るために山師のような悪行をすると人々が悪く言うが、そうした者でないとこの事業は行えない」[15]

フィクションにおける長谷川平蔵

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池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』、およびそれを原作としたテレビドラマ、漫画(作画さいとう・たかを)、テレビアニメーション(テレビ東京系)の主人公として知られている。『鬼平』における人物像については、鬼平犯科帳の登場人物を参照。

テレビドラマ・劇場映画版で長谷川平蔵を演じた俳優には、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)丹波哲郎萬屋錦之介二代目中村吉右衛門十代目松本幸四郎がおり[注釈 14]、池波は八代目幸四郎をモデルに平蔵の人物像を作り上げた。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』の、公年50(幕府に届け出た年齢。実際の年齢は私年という)で寛政7年5月19日死去という記述からの逆算。瀧川政次郎は著書で「延享二年に平蔵は呱々の声をあげたと、私は断定する」[1]と記し、重松一義も著書で「延享二年生説が妥当と考えられよう」[2]と記している。釣洋一によれば、諸書が生年を延享2年(1745年)とするのは数え年満年齢の差を考慮していない誤りで、正しくは延享3年(1746年)であるという[3]
  2. ^ 5月19日の死去は『寛政重修諸家譜』による。菩提寺の戒行寺に残る霊位簿の記録では5月10日である。死去の日付が異なる理由は、10日に死去した直後には喪を発せず、御役御免を願い出て許可を得た後、19日になって喪を発したためである[4]
  3. ^ 鬼平は池波正太郎が「あれは私が作ったんです」[5]と述べているように、当時そう呼ばれたわけではない上にあだ名でもない。
  4. ^ 瀧川政次郎は、この某氏は長谷川家の上総にあった采地から奉公に出ていた女(農家からの奉公)であるとしている[6]。なお、釣洋一は瀧川の「人足寄場史」を引き、宣以の祖父・長谷川宣尹の知行所・戸村品左衛門の娘ではなかったかとしている。釣によれば、菩提寺・戒行寺の過去帳には宣以の死の4日前に「妙雲日省」という女性が長谷川家で没したことが書かれており、この「妙雲日省」なる女性は宣以母の戸村品左衛門の娘であろうとしている。この平蔵母の実名は不明だが、戒名から推測して「於妙おたえ」とでも言ったのではないかと西尾忠久は推定している[7]。なお、小説『鬼平犯科帳』では生母は早く没し、継母と平蔵の中が悪かったためにぐれたという設定にしているが、西尾は池波の『寛政譜』の誤写からくる誤りとし、継母(名不明)のほうが早世し、平蔵の死の4日前まで生存していた生母の方が長命したことは確実とする。
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』では銕三郎だが、息子宣義が幕府に提出した『先祖書』では銕次郎と記されている[3]
  6. ^ 200俵取りの御船手であった[8]
  7. ^ 『京兆府尹記事』に「本所の銕と仇名せられ、所謂通りものなりける」とある[9]。長谷川家は19歳頃に宣以出生地の築地から隅田川対岸の本所に移ったが、その時点で「本所の銕」といわれていたことから、幼少の頃から不まじめな生活を送っており、地元のワルとして名前が通っていたのではないかという推測もある[10]
  8. ^ 長谷川宣雄は先手弓頭時代の明和8年(1771年)10月から1年間、火付盗賊改本役を命ぜられている。
  9. ^ 『京兆府尹記事』にある逸話[10]
  10. ^ 足高600石を加増されている。
  11. ^ 同じ火附盗賊改役の松平定寅・森山孝盛らが事あるごとに平蔵を誹謗中傷していたという。『よしの冊子』や、森山の著書『蜑の焼藻』などに平蔵の悪評が残る[7]
  12. ^ 逮捕後わずか10日の処刑は江戸時代でも最速の記録であり、婦女暴行の被害者に対する配慮から行ったことであろうとしている[12]
  13. ^ 宣以の先祖である宣次の弟・正吉の家系。
  14. ^ 青年時代を含めると八代目市川染五郎(十代目幸四郎の子)、中村隼人予定。錦之介の大甥)も。

出典

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  1. ^ 瀧川 1994, p. 14.
  2. ^ 重松 1999, p. 61.
  3. ^ a b 釣 2006, p. 208.
  4. ^ 瀧川 1994, p. 126.
  5. ^ 『実録鬼平犯科帳のすべて』
  6. ^ 瀧川 1994, p. 16.
  7. ^ a b 西尾 2000.
  8. ^ 釣 2006, p. 202.
  9. ^ 瀧川 1994, p. 38.
  10. ^ a b c 重松 1994.
  11. ^ a b c 山本 博文『武士の人事』KADOKAWA、2018年11月10日。 
  12. ^ 名和 1994.
  13. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第八百六十五
  14. ^ 高木久史『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』中央公論新社、2016年8月25日、148頁。 
  15. ^ 高澤 憲治『松平定信(人物叢書)』吉川弘文館、2012年9月1日、103頁。 

参考文献

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  • 瀧川政次郎『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』中公文庫、1994年。 初刊は朝日新聞社で1975年に刊行。
  • 『実録 鬼平犯科帳のすべて』新人物往来社〈別冊歴史読本〉、1994年。 
    • 重松一義「長谷川平蔵の生涯と実像」。 
    • 釣洋一「実録 鬼平犯科帳の世界」。 
    • 名和弓雄「「鬼平」事件帳」。 
  • 重松一義『長谷川平蔵の生涯』新人物往来社、1999年。 
  • 西尾忠久『江戸の中間管理職 長谷川平蔵』文春ネスコ、2000年。 
  • 釣洋一『江戸刑事人名事典 火附盗賊改』新人物往来社、2006年。 

関連項目

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長谷川宣以
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