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野田一夫

野田 一夫(のだ かずお、1927年6月22日 - 2022年9月3日)は、日本経営学者事業家。一般財団法人日本総合研究所名誉会長、一般財団法人社会開発研究センター名誉会長、一般社団法人全国経営者団体連合会会長、一般社団法人日本マネジメントスクール会長、一般財団法人日本教育推進財団最高顧問、多摩大学名誉学長、事業構想大学院大学名誉学長、グロービス経営大学院大学理事[1]

立教大学教授、マサチューセッツ工科大学ポストドクトラル・フェローハーバード大学フェロー、一般財団法人日本総合研究所初代所長、一般社団法人ニュービジネス協議会初代理事長、多摩大学初代学長、宮城大学初代学長、事業構想大学院大学初代学長などを歴任した[2][3]

人物・概要

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日本人ではじめて航空力学を学んだ父・野田哲夫は三菱重工業の技師として航空機製造の責任者となり、零式艦上戦闘機の設計主任の堀越二郎も部下であった[4][5]。そうした父を誇りに思い憧れであったが、戦後に航空への道が失われ、理系から文系に転じた[6][7]
当時、学生の間ではマルキシズムが圧倒的影響力を持つ中で、先輩が読めと手渡してくれた一冊の翻訳書、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が人生を変える契機となる。ウェーバーがドイツの高名な社会学者であることを知るや、東京大学文学部社会学科への入学を志し、合格を果たす[6]

在学中は尾高邦雄ゼミに入り、薫陶を受ける[7]。また、終戦直後において、日本の伝統的な大企業が占領や財閥解体などで活動が大きく制限される中、創業まもない企業の経営者たちの元気さに魅了されていく。さらに、大学のある本郷から坂を下りた先にある上野アメ横の元気な雰囲気の中で活動する商売人たちから、経営というものの本質を見て、大きな影響を受けることとなった[6]

1952年3月に、東京大学文学部社会学科(産業社会学専攻)を卒業。卒業時には尾高の薦めで東京大学大学院特別研究生に選任され、研究者の道に進むこととなった[6]

1955年、立教大学へ赴任する。小山栄三(当時・立教大学教員)より「誰か“産業関係論”を教えられる若手教員を求めている」という中で、尾高邦雄からの推薦を受けての赴任であった[7]。翌1956年、当時の日本で全く馴染みのなかったピーター・ドラッカーの著書『The Practice of Management』の邦訳書である『現代の経営』を出版する[6]

1960年から1962年にかけて、マサチューセッツ工科大学ポストドクトラルフェローを務めた。1966年、『戦後経営史』(出版:日本生産性本部)で、日経・経済図書文化賞を受賞する[8]。1967年には、立教大学社会学部観光学科(現・観光学部)の設置に尽力し、初代学科長に就任した[9]。この学科創設の際には、周囲からなんといわれようと志を貫き、看板学科(後に学部に昇格)に成長させた[10]。1975年にはハーバード大学フェローを務める。1989年まで立教大学の教授を務めたが、その間、日本総合研究所初代所長や一般社団法人ニュービジネス協議会初代理事長など財界の要職を兼務・歴任し、“大学改革”や“日本企業の経営近代化”の推進者としても貢献した。

野田は、立教大学で現在の経営学部の前身の一つである社会学部産業関係学科が属した社会学部教授として経営概論を教え、ゼミでは現在産業企業論としてベンチャー企業の育成を教え、日本でさきがけとなるアントレプレナーシップ(起業家精神)教育を行った[注釈 1]。ゼミの授業では、当時のベンチャー企業の経営者を毎週呼んで、ケーススタディを行ったが、こうしたケーススタディは、MBAビジネススクールでは一般的な教育プログラムであるが、当時の日本の大学の学部教育では画期的なものであった[13]。 また、ゼミは社会学部に所属するゼミであったが、在籍学部・学科を問わず募集しており、ゼミ活動は週4日、計10コマ、週2冊ペース、年間100冊と、体育会の如く運営されていた[注釈 2]

立教大学教授を定年退職した後、多摩大学初代学長(89~95年)、宮城大学初代学長(97~01年)、事業構想大学院大学初代学長(12~14年)を歴任した。

日本の経営学の開祖の一人として幅広い人脈を持ち[12]、経営者らから 平成吉田松陰、日本経済界のゴッドファーザーと呼ばれ[15][16]、多くの国内外の企業の役員・顧問・コンサルタントなどを務める[17]。 親しい友人となったドラッカーの学説の日本への紹介者として、また、ベンチャー三銃士と呼ばれる孫正義澤田秀雄南部靖之をはじめ、多数の起業家型経営者が師と仰ぐメンターとしても知られている[2][3][10][5]

プラン ドゥ シー創業者の野田豊加は三男[18]成蹊大学元学長の野田信夫は叔父[19]

来歴

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主著

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  • 『日本の重役』ダイヤモンド社
  • 『日本会社史』文藝春秋
  • 『戦後日本の経済成長』(共著)岩波書店
  • 『財閥』中央公論社
  • 『日本の経営-勝者の条件-』鹿島研究所出版会
  • 『松下幸之助-その人と事業-』実業之日本社
  • 『大学を創る』紀伊国屋書店
  • 『戦後経営史』日本生産性本部 日経・経済図書文化賞受賞
  • 『現代の経営』ダイヤモンド社(ピーター・ドラッカー著の監訳書)
  • 『マネジメント(上)-課題・責任・実践-』ダイヤモンド社(ピーター・ドラッカー著の監訳書)
  • 『マネジメント(下)-課題・責任・実践-』ダイヤモンド社(同上)
  • 『私の大学改革』産能大学出版部
  • 『時の運 人の縁』浩気社
  • 『大学の崩壊』IN通信社
  • 『未来を創る力『ものづくり』のすすめ』(共著)講談社
  • 『今、日本の大学をどうするか』(共著)自由国民社
  • 『悔しかったら、歳を取れ!』幻冬舎

関連人物

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関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の1980年代初頭の日本には、野田が教える以外にアントレプレナーシップ(起業家精神)教育は存在していなかった。日本ではアントレプレナー(起業家)の育成は中小企業で行っており、アントレプレナーの先生はアントレプレナーであり、大学で教授が教えることはなかったのである。当時のアントレプレナーはブルーカラーの世界だったが、徐々にホワイトカラーの方に移っていく契機となったのが、ベンチャー企業であった。知的レベルが上がっていくとビジネススクールでスキルを教える必要性が出てきたのである。1992年になると、法政大学大学院に企業家教育コースが開校し、人気を集め、ほぼ同時期に早稲田大学教授の松田修一がアントレプレナー研究会を始めて、ようやく起業家教育が全国に広がっていくこととなった。また、立教大学教授を1989年3月に定年退職した野田一夫は、同年4月に開校した多摩大学の初代学長として、ベンチャー型起業家を生み出すアントレプレナー教育を開始し、その後、学長となった事業構想大学院大学でも教育の基本に据え、立教大学でさきがけとして始めたアントレプレナーシップ教育を拡大していった[11][12]
  2. ^ ゼミの募集要項には、社会学のみならず、経済、経営、心理、政治、歴史、哲学など、様々な分野からアプローチしていきたいとあり、さらには、“態度・物腰し・言葉遣い・礼儀・目つき・顔つきに至るまで最高水準の学生を求める”と書いてあった[14]

出典

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  1. ^ 『プロフィール』 野田一夫WebSite
  2. ^ a b 『野田一夫氏インタビュー』 株式会社パラドックス
  3. ^ a b 『政経電論』 株式会社損得舎
  4. ^ 野田家は先祖代々南部藩士。父親までが盛岡出身。
  5. ^ a b 賢者の選択 『「個性を磨け、愚痴を言うな」 ゴッド・ファーザーからの遺言』
  6. ^ a b c d e ドラッカーに学ぶ人生 『“Oh Peter, Oh Kazuo” 今も聞こえるあの懐かしい声(1)‐(4)』ドラッカー学会
  7. ^ a b c 立教経済人クラブ会報 2017年8月1日 No.72
  8. ^ 『日経・経済図書文化賞』受賞図書一覧 2021年11月3日
  9. ^ 『PRESUDENT Online』 野田一夫
  10. ^ a b ダイヤモンド・オンライン 『ベンチャー三銃士が師事する平成の吉田松陰が現代の経営者に贈る言葉』 2016.10.26
  11. ^ 日本ベンチャー学会『2012年 第7回清成忠男賞 受賞者・受賞論文』
  12. ^ a b 望月照彦「多摩大学におけるベンチャー教育の一つの試み : カレッジ・イノキュレーション私論」『経営・情報研究 多摩大学研究紀要』第1号、多摩大学経営情報学部、1997年3月、45-63頁、ISSN 1342-9507NAID 110000032546 
  13. ^ アゴラ言論プラットフォーム
  14. ^ ドラッカー学会『ピーター・ドラッカーと私』藤田聰
  15. ^ 日刊スゴい人(2010-06-07)
  16. ^ S-style・クライアント様事例
  17. ^ 株式会社企業変革創造・当社のアドバイザー
  18. ^ 「高等教育の軽視」にある週刊ホテルレストラン2017年01月06日号
  19. ^ 日本の経営ジャーナリズム 現代の企業社会に何を残したか 猪狩 誠也(東京経済大学) 152頁
  20. ^ 堀越二郎糸川英夫三菱重工業技師だった父親などの影響で航空技術者を目指し理科で入学したが、戦後のGHQの影響で東京大学工学部航空学科廃止・父親の失業などがあり、希望がないと判断し、1年で文科に入り直した
  21. ^ きっかけはマックス・ヴェーバー
  22. ^ NBC(一般社団法人東京ニュービジネス協議会)歴史
  23. ^ 後任の中村秀一郎が第2代学長就任直後に体調不良となったため、後に第3代学長となるグレゴリー・クラークに引き継ぐまでのリリーフ。
  24. ^ 元々は委員長の西沢が候補に挙がっていたが、当時東北大学総長任期途中であったため、野田が選ばれた(西沢は1997.9に宮城大学名誉学長となる)。なお野田は公立大学の宮城大学ではあまり改革を望めなかったため、退任後の名誉学長職を県に返還している。
  25. ^ 寺島実郎の第5代学長就任が諸事情で1年延期となった影響による穴埋め。
  26. ^ “野田一夫・事業構想大学院大学初代学長の逝去をお悔やみ申し上げます”. 事業構想ONLINE. (2022年9月12日). https://www.projectdesign.jp/articles/news/9fd9510c-1628-4d8c-b2df-cf81140e11ae 2022年10月16日閲覧。 
  27. ^ 野田が立教大学助教授時代のゼミ出身、1960年立教大学社会学部社会学科卒業
  28. ^ 立教経済人クラブ会報 2017年8月1日 No.72
  29. ^ CRS: Center for Rule-making Strategies

外部リンク

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先代
宮城大学学長
初代:1997年-2001年
次代
福田正
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野田一夫
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