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村山伝兵衛

村山 伝兵衛(むらやま でんべえ)は、元禄年間に能登国から蝦夷地に進出した商人。「伝兵衛」は初代以降の当主によってたびたび襲名されている。

屋号は安部屋または阿部屋。店印はマルジュウゴ(○に十五)で、これは初代伝兵衛の「15隻の船を持つまでになりたい」という願いが込められているといわれる[1]

村山家歴代当主

初代・村山伝兵衛
1683年10月5日天和3年8月15日) - 1757年6月4日宝暦7年4月18日
能登国羽咋郡安部屋村にて生まれ、十代半ばから二十代初期に松前藩へ渡る。藩士・工藤八郎右衛門の家に居候しながら商売を始めたとされるが[1]、『村山家資料目録』によると、松前には阿部屋の本家筋に当たる張江甚兵衛がすでに進出しており、伝兵衛はその使用人として働いた可能性もある[1]
当時の松前に移住するためには住人と縁戚になる必要があったため、伝兵衛は松前藩御座船の船頭・古谷勘左衛門の娘の養子となってから、城下に店を開いた[2]。所有する船は15まで至らずとも5隻に及び、やがて宗谷苫前留萌石狩など藩主直領の場所経営も任せられるようになった。また、アイヌに漁法を指導したこともあったといわれる[1]
2代目・村山理兵衛
1716年享保元年) - 1770年明和7年)
敦賀の島崎半兵衛の息子。近江商人・萬屋喜右衛門の松前店で働いていたところを初代伝兵衛に見出され、娘婿に迎えられた[1]
2児に恵まれるも、何らかの理由で村山家を去り、大坂の山口屋伊兵衛の家で死去した[3]
3代目・村山伝兵衛(兵右衛門)
1738年元文3年) - 1813年2月8日文化10年1月8日
祖父の死後に家督を継ぎ、明和年間に石狩場所の一部を請け負う。さらに1775年安永4年)には飛騨屋が請け負っていた宗谷場所の実権を握り、1778年(安永7年)には福島屋田付新助が返上した増毛場所をも請け負った。順調に勢力を伸ばした3代目伝兵衛は苗字帯刀を許され、1782年天明2年)には町年寄町奉行下代役を兼任し、長崎俵物買付総取締役までも勤める[3]
1789年寛政元年)のクナシリ・メナシの戦いの後、松前藩は東蝦夷の場所を請け負っていた飛騨屋久兵衛を罷免し、当地を藩主直轄としたうえで、9月には実務を伝兵衛に任せた。このときの喫緊の業務は困窮するアイヌへの救援物資の輸送であり、伝兵衛は冬季の航行の困難さに辞退しようとしたが許されなかったとも、逆に飛騨屋の後釜に据えるつもりで積極的に乗り出したともいわれる[4]
戦後の混乱を巧みに収めた伝兵衛は、1790年(寛政2年)、藩命により樺太の場所開発に船を派遣する[4]。さらに宗谷場所から分設された斜里場所の実権をも握り、『日本長者鑑』による日本国内長者番付では、西の鴻池善右衛門と並ぶ東の横綱と称された[5]
隆盛を極めた伝兵衛だったが、1796年(寛政8年)、松前藩から「御叱之上慎(謹慎処分)」を命じられ、それまで請け負っていた場所を召し上げられた。この急な没落の裏では、村山家の追い落としを図る大坂商人・小山権兵衛が、先代藩主・松前道広に取り入って働きかけていたといわれる[6]
しかし1797年(寛政9年)、幕府が松前道広に江戸への出府を命じると、松前藩は1798年(寛政10年)、伝兵衛に家と倉庫を返還して所払いを解いた。次いで1799年(寛政11年)、幕府は東蝦夷地を仮上知(一時没収)として場所請負人を廃止し、伝兵衛を蝦夷地御用掛の官用取扱方に命じた。すると松前藩は伝兵衛を一代侍に取り立て、宗谷・斜里・樺太の3場所の経営と、藩営とした苫前・留萌・石狩の3場所の監督を任せようとしたが、幕命のほうが優先されたため実行はされなかったらしい[7]
1915年(大正4年)、従五位を追贈された[8]
復権を果たしたものの3代目伝兵衛はすでに老境であり、家督を後進に譲ることになる。
4代目・村山専八(伝吉)
1759年(宝暦9年) - 1793年(寛政5年)7月
父親よりも先に、35歳で死去[6]
5代目・村山伊兵衛
生没年不詳
敦賀の西岡治左衛門の息子で、3代目伝兵衛の娘婿[9]
1799年(寛政11年)に村山家を継いだものの、1801年享和元年)、病気のせいで実家に戻ることになった[9]
5代目代理・富塚喜右衛門
生没年不詳
加茂の富塚信右衛門の弟。一時期、3代目伝兵衛の養子となって、伊兵衛の代わりを務めた[9]
6代目・村山伝兵衛(直之)
1786年天明6年) - 1866年慶応2年)
1801年文化2年)、祖父の3代目伝兵衛から家督を譲り受ける[9]1803年(文化4年)、松前奉行所の命令で「伝兵衛」を襲名した[10]
1815年(文化12年)、石狩場所を単独で任されるが、1817年(文化14年)に始まる疱瘡の流行で石狩は大打撃をこうむる[10]。村山家は運上金を半減してもらい、また奉行所から融資を受けることでこの危機を乗り切った[11]
1845年弘化2年)の石狩川氾濫の際は、越後から10名の技術者を呼び寄せ、10年かけて堤防を補修した[12]
7代目・村山金八郎(直栄)
生年不詳 - 1892年明治25年)
俳句結社「石狩尚古社」に参加していた[13]

村山家系図

 
 
 
 
初代・伝兵衛
 
島崎半兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2代目・理兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西岡治左衛門
 
次男
 
3代目・伝兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5代目・伊兵衛
 
 
 
三女
 
4代目・専八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6代目・伝兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7代目・金八郎

足跡

丸重吾橋

村山伝兵衛は、北海道神宮末社・開拓神社の祭神37柱に名を連ねている。

また、札幌市南区藤野藤の沢は、かつて村山家が木材の切り出しを行っていた場所であり、材木に押されるマルジュウゴの焼印から、付近一帯も丸重吾と呼ばれていた[14]定山渓鉄道線藤の沢駅ができて以降、地名としての丸重吾は消滅したが[15]、オカバルシ川に架かる国道230号の橋の名前に痕跡を留めている。

脚注

  1. ^ a b c d e 伊藤 2008, p. 79.
  2. ^ 伊藤 2008, pp. 78–79.
  3. ^ a b 伊藤 2008, p. 80.
  4. ^ a b 伊藤 2008, p. 81.
  5. ^ 伊藤 2008, p. 82.
  6. ^ a b 伊藤 2008, p. 83.
  7. ^ 伊藤 2008, p. 84.
  8. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.39
  9. ^ a b c d 伊藤 2008, p. 85.
  10. ^ a b 伊藤 2008, p. 90.
  11. ^ 伊藤 2008, p. 91.
  12. ^ 鈴木 1996, p. 87.
  13. ^ 鈴木 1996, p. 96.
  14. ^ 札幌市南区 - 極印15.-丸重吾-のむかし
  15. ^ どうしん鉄道ブログ - 定山渓鉄道・百話 丸重吾と藤ノ沢[1]

参考文献

  • 伊藤孝博『北海道「海」の人国記』無明舎出版、2008年7月30日。ISBN 978-4-89544-478-1 
  • 編:鈴木トミエ『石狩百話 風が鳴る 河は流れる』共同出版社、1996年9月1日。ISBN 4-87739-009-X 
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