文宗 (高麗王)
文宗 王徽 | |
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高麗 | |
第11代国王 | |
王朝 | 高麗 |
在位期間 | 1046年6月24日 - 1083年9月2日 |
姓・諱 | 王徽(初名:緒) |
諡号 | 章聖剛正明戴仁孝大王 |
廟号 | 文宗 |
生年 |
天禧3年12月1日 (1019年12月29日) |
没年 |
太康9年7月18日 (1083年9月2日) |
父 | 顕宗 |
母 | 元恵太后 |
王后・王配 |
仁平王后 仁睿王后 |
陵墓 | 景陵 |
文宗(ぶんそう、1019年12月29日 - 1083年9月2日)は第11代高麗王(在位:1046年 - 1083年)。姓は王、諱は徽、初名は緒、諡号は章聖剛正明戴仁孝大王。
概要
[編集]顕宗と元恵太后金氏(金殷傅の娘)の子として生まれる。1022年楽浪君に冊封され、1037年内史令、兄の靖宗の死後、即位した。
文宗の時代に高麗のすべての制度と整備が完成され、社会的に非常に安定して文化が発展した。
人物
[編集]高麗は、宋、契丹、女真などとも活発に交流し、これらの国からの帰化人も多かった。帰化人の職種で最も多いのは、文人、文士、官人などのインテリであり、他には、商人、訳語、僧侶、医師、音楽家、占術師などである。後三国を統一を主導した勢力は武将であるため、知識層が絶対的に不足していたため、高麗は、帰化人に官職、土地、家屋、物品を与えるなど帰化人を優遇した[1]。女真の耶邑幹(朝鮮語: 야읍간)が東北面に来て自分の父親、母親、兄弟など6人が高麗に亡命しており、自分も家族とともに暮らしたいと懇願した。文宗は「両親に親孝行するためにも、両親の親戚もともに連れて来て、嶺南に移住させよ」とする命令を下した[1]。帰化人は、外交、通訳、貿易、医療、音楽、占術など多方面で活躍し、高麗の発展に大きく寄与した[1]。
宗室
[編集]后妃
[編集]- 仁節賢妃李氏(李子淵の三女)
- 仁穆徳妃金氏
脚注
[編集]高麗王(第11代:1046年 - 1083年) | |
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高麗王 | 太祖918-943 / 恵宗943-945 / 定宗945-949 / 光宗949-975 / 景宗975-981 / 成宗981-997 / 穆宗997-1009 / 顕宗1009-1031 / 徳宗1031-1034 / 靖宗1034-1046 / 文宗1046-1083 / 順宗1083 / 宣宗1083-1094 / 献宗1094-1095 / 粛宗1095-1105 / 睿宗1105-1122 / 仁宗1122-1146 / 毅宗1146-1170 / 明宗1170-1197 / 神宗1197-1204 / 熙宗1204-1211 / 康宗1211-1213 / 高宗1213-1259 / 元宗1259-1274 / 忠烈王1274-1298 / 忠宣王1298 / 忠烈王(復位)1298-1308 / 忠宣王(復位)1308-1313 / 忠粛王1313-1330 / 忠恵王1330-1332 / 忠粛王(復位)1332-1339 / 忠恵王(復位)1339-1344 / 忠穆王1344-1348 / 忠定王1349-1351 / 恭愍王1351-1374 / 禑王1374-1388 / 昌王1388-1389 / 恭譲王1389-1392 / |
追封王 | |
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