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岩松直国

 
岩松直国
時代 南北朝時代
生誕 不明(1320年代?[1]
死没 不明
改名 土用王/豊王(丸)[2][3]、幼名)→直国
→法松/法道(法名)
別名 岩松直國(旧字体表記)、真義
通称:岩松五郎[2](※当時の古文書により正しくは三郎か)
官位 治部少輔[4]
主君 足利直義基氏
氏族 河内源氏岩松氏
父母 父:岩松政経(諸説あり)
養母:妙蓮
兄弟 世良田義政[5]、本空、経家頼宥直国
上杉憲顕[6]
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岩松 直国(いわまつ ただくに)は、南北朝時代武将岩松氏当主。岩松氏の中興の祖とされる人物。

生涯

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建武元年(1334年)、養母・妙蓮より新田荘内の所領を譲り受けたことが史料における初見である。その所領は、嘉禄3年(1227年)、足利義純の子・岩松時兼に嫁いで経兼を生んだ土用御前が実父・相馬能胤から譲り受けた所領を基礎に、そこに多少の岩松所領が加わって構成されたもので、以後は娘の真如、孫娘の妙蓮へと相伝された後に、直国(豊王/土用王)がこれを譲り受けることになった[7]。2種類が伝わる同年12月21日付の譲状[8]の「□□□(ゆつり)わたす(譲り渡す)やうし(養子)みなもと(源)のとよわう」と「ゆつりわたすやうし三郎たゝく□(に)」、「とよわうとのをやうしとして」と「たゝくに□(を)やうしとして」が対応しており、この頃に「とよわう」(豊王/土用王)は元服して「たゝくに」(=ただくに、直国)と名乗ったとされる[9]。建武元年12月は足利直義成良親王を奉じて鎌倉将軍府を形成した月でもあり、本家筋の新田氏[10]新田義貞)から離れ足利氏への接近を図る岩松氏の惣領・岩松経家が弟の土用王を元服させるに際して直義に加冠を求めた結果、土用王は烏帽子親である直義から偏諱を受けて直国と名乗ったのだという[11]

以上のように、岩松氏の惣領は兄・経家が継いでおり[12]、また妙蓮の養子となって所領を譲り受けたことから、直国については、当初周囲からは岩松家の惣領となる存在とは認知されていなかったと考えられる[7]が、翌建武2年(1335年)の中先代の乱で経家を初めとする一族の多くが戦死する[13]とその立場は急変する。『系図纂要』の岩松氏系図を見ると、直国の項には「兄経家戦死其子泰家幼少父政経加下知以直國継岩松名跡…(以下略)」とあり、経家の子(直国の甥)である岩松泰家(満親)の項にも「父経家戦死時年幼也叔父直國執事成長後復本領」と注記されている。すなわち、経家が戦死した時、その嫡子である泰家はまだ幼少であったので、叔父である直国がその成長まで岩松氏の家督を継ぐことになったようである[7]

前述したように、烏帽子親子関係を結んだ経緯もあって、以後は足利直義と行動を共にするようになり、早速建武3年(1336年6月9日には直義の命により美濃国尾張国等の軍勢を率いて京へ向かわされている[14]。また、直義が最も信頼していた鎌倉府執事上杉憲顕の娘を妻に迎えて関係を深めた。興国7年/正平元年/貞和3年(1347年)には新田荘由良郷地頭職に補任された。 正平5年/観応元年(1350年12月23日、新田荘内の世良田右京亮桃井直常らの旧領を与える旨の高師直奉書が室町幕府(将軍は足利尊氏)より下される[15]。特に直常は直義派の武将であり、一見直国が直義派から離脱したかに見えるが、これは師直ら尊氏派による憲顕―直国間の分離工作であったとされている[16]。実際、翌正平6年/観応2年(1351年7月3日には直義より全知行を安堵されており[17]観応の擾乱でも引き続き直義派の武将として活動していたことが窺える。

正平12年/延文2年(1357年8月21日、直国の領地であった武蔵国春原庄内萬吉郷が跡として伊豆国吉祥寺に寄進され[18]、正平17年/康安2年/貞治元年(1362年8月11日には、尊氏の子で鎌倉公方であった足利基氏宇都宮氏綱征伐(武蔵国岩殿山の合戦)に従軍して戦功を挙げたことにより、基氏から本知行分が還補されている[19]。同文書に「本知行分事、如元所還補也、」と記されている[20]ことから、観応の擾乱後は直義党であったことにより一旦処罰され、前述の活躍によって基氏の信頼を得たものと推測されている[21]。これには義父・上杉憲顕の動向も関係しているものと推測されている[22]。正平19年/貞治3年(1364年)7月、基氏の逆鱗に触れた世良田義政(直国の兄とされる[5])が郎党の梶原景安と共に鎌倉如来堂で誅殺され[23]、直国の近親者とみられる岩松直明が上総国守護となったという[24]。さらに新田荘江田郷も直国に与えられ、翌正平20年/貞治4年(1365年)には基氏の兄で2代将軍・足利義詮からも直国に対する本領安堵の御教書が与えられた。以降は基氏の近臣として活動し、従孫(泰家の子)の岩松満国以降も鎌倉公方に仕えた。没年は不明だが、元中2年/至徳2年(1385年)までの生存は確認できる(後述参照)。

備考

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  • 奥富敬之は(『尊卑分脉』などの系図上では兄弟とされる)岩松禅師頼宥(『尊卑分脉』では頼圓)が還俗して「直国」と名乗り惣領を嗣いだ(すなわち頼宥=直国)とする見解を示していた[25]が、『正木文書』に収められる観応元年12月23日付「高師直奉書」(前述と同一のもの)には「岩松治部少輔直国」とあるのに対し、同月27日付「足利尊氏袖判下文」には「岩松禅師頼宥」とあることを理由に、阪田雄一が奥富の説を否定する見解を示している。また、頼宥が観応の擾乱において尊氏派に属していることからも別人であることは確実とみられる。すなわち、観応の擾乱時には直国と頼宥(頼圓)は兄弟分かれて対立していたことになる。
  • 鎌倉大草紙』に「至徳二年乙丑三月新田相州陰謀の回文、上州武州の兵を催さるゝ、梶原美作守代官2里召捕、新田の安養院の別当并寺僧一人をば岩松治部少輔入道法道搦進す」とあることから、至徳2年(1385年)の段階での法名が「法道」であったとみられる。「岩松系図」[3]と『系図纂要』では法名を「法松」とする。
  • 前述したように、直国が岩松氏惣領となったのは、あくまで甥の泰家が成長するまでの、いわば“中継ぎ”の当主としての行為であり、『系図纂要』の泰家の注記に「成長後復本領」とあるように、岩松氏惣領の所領は直国から泰家へと譲られたようである。『系図纂要』の満国の項には「泰家雖爲嫡子大季父直國無嗣子故併領其邑」とある。すなわち、満国は泰家の嫡子であったが、大季父(=おじの項を参照)の直国に嗣子がなかったため、その所領も併せて領することになったようである。

脚注・出典

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  1. ^ 元服の年を建武元年(1334年)とした場合の逆算による。
  2. ^ a b 『系図纂要』。
  3. ^ a b 『大日本史料』六之二 P.198 掲載の「岩松系図」。
  4. ^ 『尊卑分脉』。当時の古文書にも「岩松治部少輔」と記されている(本文参照)。よって、『系図纂要』に掲載の「治部大輔」は誤りであろう。
  5. ^ a b 『系図纂要』第10冊下の世良田氏系図、『群馬・五』P.888「長楽寺系図」および P.915「新田岩松系図」には、義政が岩松政経の長男であったことが明示されている。『系図纂要』の岩松氏系図にも政経の長男に義政を載せているが、義政は庶長子であったため、岩松家は弟の経家が継承し、義政自身は世良田氏に養子入りすることになったという。小国、2001年、P.64-66に拠る。
  6. ^ 『諸家系図纂』所収「上杉系図」による。尚、「上杉家本 上杉系図」にも憲顕の女子の一人に「岩松妻」との注記がある。いずれも『大日本史料』六之三〇 P.59-60に掲載。
  7. ^ a b c 小国、2001年、P.64。
  8. ^ 『大日本史料』六之二 P.195-197。『南北朝遺文』関東編1 P.79-80、186号・187号文書「尼妙蓮譲状写」。
  9. ^ 阪田、1994年、p.3。『南北朝遺文』関東編1 P.80。
  10. ^ 厳密には岩松氏は足利一門・畠山氏の支流にあたるため、新田氏の一族ではないが、『尊卑分脉』・『系図纂要』以下の系図類によれば直国の父・政経は「新田下野守(=得川頼有猶子」であったといい、形式上は新田一門となっていたことになる。
  11. ^ 以上、阪田雄一の見解による(阪田、1994年、p.2-3)。
  12. ^ 『系図纂要』の経家の項に「自父政経譲与岩松家督」とある。
  13. ^ 『群馬・通』P.346。『系図纂要』によれば、経家のほか、兄弟の本空と頼宥も同時に戦死したというが、頼宥に関してはその後観応の擾乱に至るまでの生存が確認できる(備考を参照のこと)。
  14. ^ 阪田、1994年、p.3。典拠は『正木文書』。
  15. ^ 同日付「幕府執事高師直奉書」(『正木文書』)。
  16. ^ 阪田、1994年、p.3。
  17. ^ 同日付「足利直義御教書」(『正木文書』)。
  18. ^ 同日付「足利基氏寄進状」(『神田孝平氏旧蔵文書』)。
  19. ^ 同日付「足利基氏御教書写」(『正木文書』、『南北朝遺文』関東編4 P.267、3033号文書)。
  20. ^ 阪田、1994年、p.4。峰岸純夫「室町時代東国における領主の存在形態」(所収:同氏『中世の東国 地域と権力』、東京大学出版会、1989年)。
  21. ^ 阪田、1994年、p.4。
  22. ^ 小国論文参照。
  23. ^ 小国論文参照。典拠は『喜連川判鑑』、『鎌倉大日記』、『常楽記』、『後鑑』所収萬澤文書。
  24. ^ 小国、2001年、P.61。
  25. ^ 今谷明・藤枝文忠 編 『室町幕府守護職家事典』上(新人物往来社、1988年)、岩松氏の項。

出典

[編集]
  • 阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」(所収:國學院大學地方史研究会機関誌『史翰』21号、1994年)
  • 小国浩寿「上総守護と世良田義政事件 ―『円覚寺蔵大般若経刊記』をめぐって―」 *所収:小国浩寿『鎌倉府体制と東国』(吉川弘文館2001年)P.60~80、初出は『金沢文庫研究』(1995年)。
  • 大日本史料
  • 『群馬県史』通史編3 中世(※脚注では『群馬・通』と略す)
  • 『群馬県史』資料編5 中世1 古文書・記録(※脚注では『群馬・五』と略す)
  • 『群馬県史』資料編6 中世2 編年史料1(※脚注では『群馬・六』と略す)
  • 『南北朝遺文』(東京堂出版
  • 黒板勝美、国史大系編修会 編 『新訂増補国史大系尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)
  • 『新版系図纂要』(名著出版)第9冊下・第10冊下(※本文および脚注では『系図纂要』とする)

関連項目

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先代
岩松経家
岩松氏第5代当主
次代
岩松泰家
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岩松直国
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