大谷休泊
大谷 休泊(おおや きゅうはく 大永元年(1521年) - 天正6年8月29日(1578年9月30日))は、戦国時代の上野国(現在の群馬県)の農政家。新左衛門と名乗った[1]。
生涯
[編集]関東管領山内上杉家に仕え、上杉憲政の下で農業奨励や開拓事業を行う。
天文21年(1552年)、主君・憲政の居城の平井城が北条氏康により落城し、その後は館林城の長尾顕長の招聘を受け、防風林や用水路を作る。
防風林については、太田金山の松苗を移植、21年間に150万本の松を植栽し「大谷原山林」を造成した。また用水路は、後に「休泊掘(きゅうはくぼり)」と呼ばれ農業生産力の向上に貢献した。
天正6年(1578年)、死去。墓は群馬県館林市北成島693にあり、群馬県指定史跡となっている。大正4年(1915年)、その功績から従五位が追贈された[2]。
休泊堀
[編集]渡良瀬川と利根川との間にひろがる渡良瀬川扇状地は、群馬県東南部の東毛地域と、栃木県足利市との間にまたがっている。関東武士としての源氏の発祥の地でもあるこの地域には古墳が多く、荘園も発達していた。中でも新田荘は南北朝時代の武将・新田義貞が総仕上げをしたといわれるが、用水や湧水は井戸に依存していた。この新田荘の東には荒野がひろがっていた。この地域を開拓するために新田堀や休泊堀が元亀元年(1570年)ころできたといわれている。新田堀は太田金山城主・由良成繁が奉行の荒山小左衛門に、また、休泊堀は館林の足利の城主・長尾顕長が奉行の大谷新左衛門(号は休泊)につくらせた。
休泊堀は、水源を渡良瀬川に求め、現在の太田市只上新田の地先に矢場堰を設けた。ここから多々良沼までの地域に上休泊堀を掘り、開墾を進め、次々と新しい村を誕生させた。
休泊は、さらに多々良沼から用水を取る水路を開いて、下休泊堀とよんだ。上休泊堀は17ヶ村に配水し、その灌漑面積は合計599町1反5畝になった。下休泊堀の灌漑面積は497町1反2畝といわれている。上下休泊堀を合わせて1096町2反7畝(1087ヘクタール)と館林領五郡農家配水鑑に記している。ところで矢場堰も待堰(新田堀)も共に渡良瀬川から水を引いているので、渇水期になると水争いがしばしばおこった。明治10年(1877年)、両堰は合併し待矢場両堰組合が設立された。
脚注
[編集]関連項目
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