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伊号第二十潜水艦

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伊号第二十潜水艦
基本情報
建造所 三菱重工業神戸造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等潜水艦
級名 伊十六型潜水艦
建造費 13,062,460円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画(③計画
起工 1937年11月16日
進水 1939年1月25日
竣工 1940年9月26日
最期 1943年9月3日戦没
除籍 1943年12月1日
要目
基準排水量 2,184トン
常備排水量 2,554トン
水中排水量 3,561トン
全長 109.3m
最大幅 9.10m
吃水 5.34m
機関 艦本式2号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 水上:14,000馬力
水中:2,000馬力
速力 水上:23.6kt
水中:8.0kt
燃料 重油
航続距離 水上:16ktで14,000海里
水中:3ktで60海里
潜航深度 安全潜航深度:100m
乗員 95名[1]
兵装 40口径十一年式14cm単装砲x1門
九六式25mm連装機銃x1基2挺
九五式53cm魚雷発射管x8門(艦首8門)/九五式魚雷x20本
搭載機 なし
レーダー 22号電探x1基
ソナー 九三式探信儀x1基
九三式水中聴音機x1基
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伊号第二十潜水艦(いごうだいにじゅうせんすいかん、旧字体伊號第二十潜水艦)は、大日本帝国海軍伊十六型潜水艦の三番艦。

艦歴

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計画-竣工

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1937年昭和12年)の第三次海軍補充計画(③計画)で建造が計画され、1937年11月16日に三菱重工業神戸造船所で起工。1938年(昭和13年)9月20日、艦艇類別等級表に登録[2]1939年(昭和14年)1月25日進水し、1940年(昭和15年)9月26日に竣工した。同日、横須賀鎮守府籍となり、横須賀鎮守府部隊所属となる。

1941年(昭和16年)1月31日、伊18と共に第六艦隊第一潜水戦隊第二潜水隊を編成。

真珠湾攻撃

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太平洋戦争開戦時には第六艦隊第一潜水戦隊第二潜水隊に所属。1941年(昭和16年)11月18日、伊20はを出港し、倉橋島亀ヶ首に移動。同地で特殊潜航艇甲標的を搭載した後、真珠湾攻撃に参加するため19日2時15分に出港。12月7日2時57分、真珠湾口151゚、5,3浬地点付近で広尾彰少尉、片山義雄二等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。搭載艇はワード号事件により撃沈された[注釈 1]。9日早朝、ラナイ島南方沖の会合点を離れ、20日にクェゼリンに到着した。

1942年(昭和17年)1月4日、伊20はクェゼリンを出港し、サモアフィジー諸島方面に進出。11日、パゴパゴを砲撃。16日、スバ付近でニュージーランド揚陸艦「モノワイ(HMNZS Monowai)」を発見し、魚雷2本を発射するも、魚雷は全て早爆した。伊20は砲撃のため浮上して接近するも、「モノワイ」から砲撃を受ける。伊20も反撃して船橋に1発を命中させたと判断したが、実際は命中弾はなかった。その後伊20は潜航し、「モノワイ」は警報を発信しながら高速で去っていった。24日、クェゼリンに寄港し、2月1日に横須賀に到着。同日、第一潜水隊の伊15伊17と入れ替わる形で、伊18と共に第一潜水隊に編入。

インド洋での作戦

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3月10日、第一潜水隊は第八潜水戦隊に編入。

16日、伊20は横須賀を出港し、に移動。4月16日、第一潜水隊の僚艦、伊10伊30と共に甲先遣隊を編成し、を出港。18日、ドーリットル空襲を受け、小笠原諸島北方沖にいる米機動部隊の迎撃のために北東へ向かったが、空振りに終わった。27日、ペナンに到着し、水上機母艦日進により運ばれてきた甲標的を搭載。30日、伊30を除いた部隊は特設巡洋艦報国丸大阪商船、10,438トン)、愛国丸(大阪商船、10,437トン)と共にペナンを出港。5月5日、10日、15日に報国丸愛国丸から給油を受けた後、2隻と別れた。17日、波浪により機関室に浸水。排水作業を行った後、再度機関室に浸水するも、任務を続行した。20日、伊10の搭載機がダーバンを飛行偵察。30日、伊10の搭載機がマダガスカル島ディエゴ・スアレスを飛行偵察し、戦艦1他多数の艦船の在泊を報告してきた。31日17時40分、ディエゴ・スアレス港の攻撃を行うべく、ディエゴ・スアレス沖10浬の地点で秋枝三郎大尉、乗組員竹本正巳一等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。搭載艇は20時25分に英戦艦ラミリーズへ向け魚雷1本を発射。魚雷はラミリーズの左舷A砲塔前部に被雷し、前部15インチ砲の弾薬庫などが浸水した[3]。21時20分、英コルベットジェニスタ(en:HMS Genista)、タイム(en:HMS Thyme (K210))が爆雷攻撃を行う中、英タンカーブリティッシュ・ロイヤルティ(British Loyalty、6,993トン)に向け、残る魚雷1本を発射。魚雷は命中し、ブリティッシュ・ロイヤルティは沈没した[注釈 2][4]。その後艇がノシ・アレス島に座礁したため搭乗員は艇を放棄してマダガスカル島アンタラブイ近くに上陸し、6月2日に会合地点付近のアンドラナボンドラニナという小集落でイギリス軍部隊との銃撃戦により戦死した[5]。6月3日、伊20は浮上して搭載艇と接触をとろうとしたが、失敗に終わった。5日、南緯13度12分 東経42度06分 / 南緯13.200度 東経42.100度 / -13.200; 42.100の地点でパナマ貨物船ジョンズタウン(Johnstown、5,086トン)を発見し、雷撃により撃沈。8日、南緯05度05分 東経40度53分 / 南緯5.083度 東経40.883度 / -5.083; 40.883の地点でギリシャ貨物船フリストス・マルケトス(Christos Marketos、5,209トン)を発見し、雷撃により撃沈。11日、南緯14度37分 東経40度58分 / 南緯14.617度 東経40.967度 / -14.617; 40.967の地点で、英貨物船マーロンダ(Mahronda、7,926トン)を発見し、雷撃により撃沈。12日、南緯14度40分 東経40度53分 / 南緯14.667度 東経40.883度 / -14.667; 40.883の地点で、パナマ貨物船ヘレニック・トレーダー(Hellenic Trader、2,052トン)を発見し、砲撃により撃沈。同日、南緯16度25分 東経40度10分 / 南緯16.417度 東経40.167度 / -16.417; 40.167の地点で、英貨物船クリフトン・ホール(Clifton Hall、5,063トン)を発見し、雷撃により撃沈。17日、報国丸愛国丸との会合点に到着し、燃料と食糧の補給を受けた。29日、南緯13度25分 東経41度53分 / 南緯13.417度 東経41.883度 / -13.417; 41.883の地点で、アデンからロレンソ・マルケスへ向かっていたノルウェー貨物船ゴヴィケン(Goviken、5,063トン)を発見し、雷撃。魚雷が命中した同船は20分で沈没した。30日、南緯09度00分 東経42度00分 / 南緯9.000度 東経42.000度 / -9.000; 42.000の地点で、英タンカーステアウア・ロマナ(Steaua Romana、5,311トン)を発見し、主砲弾15発を発射して1発を命中させた。そのうち、ステアウア・ロマナが反撃してきたため、潜航して九五式酸素魚雷を発射するも、魚雷は早爆した。ステアウア・ロマナは煙幕を張りながら逃げようとするも、伊20はそれをものともせず魚雷を発射。魚雷は命中し、ステアウア・ロマナは沈没した。その後、伊20は連合軍無線通信を傍受してステアウア・ロマナの船名を確認した。7月5日、魚雷の早爆の原因を探るため、九五式酸素魚雷1本を分解して調査した。21日、アデン湾に進出して哨戒を行い、同日中に哨戒区域を離れた。8月5日、ペナンに到着。その後、ペナンを出港する。23日、横須賀に到着し、整備を受ける。

ソロモン諸島方面へ

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10月24日、伊20は横須賀を出港し、ショートランドに移動。11月5日、水上機母艦千代田により輸送されてきた甲標的を搭載し、同日夜に出港。7日5時20分、ガダルカナル島エスペランス岬沖4浬地点付近で、國弘信治中尉、井上五郎一等兵曹が乗った甲標的を発進させる。搭載艇はマハバ英語版(USS Majaba, AG-43)、その近くに停泊していた米駆逐艦ランズダウン英語版(USS Lansdowne, DD-486)を発見し、それぞれに魚雷1本ずつを発射。魚雷は1本がランズダウンの艦底下を通過して陸岸に命中したが、爆発しなかった。もう1本はマハバの右舷機関室に命中し、これを撃破した。マハバは沈没を防ぐため擱座された[注釈 3]。艇はランズダウンと米駆逐艦ラードナー英語版(USS Lardner, DD-487)の爆雷攻撃を受けるも被害はなかった。その後艇は自沈処理がされ、搭乗員はガダルカナル島に上陸した。伊20はトラックに向かった。

13日、伊20はトラックで甲標的を搭載して出港。18日、発進地点に到着し、19日3時0分にエスペランス岬沖6浬地点付近で、三好芳明中尉、梅田喜芳一等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。搭載艇は2分後に操舵装置からのオイル漏れが発生するも任務を続行。しかし、目標を見つけることはなく、9時55分にエスペランス岬付近で自沈処理がされ、搭乗員はガダルカナル島に上陸した。伊20はトラックに戻った。

26日、伊20はトラックで甲標的を搭載して出港。12月2日、発進地点に到着し、19日3時0分にサボ島沖19浬地点付近で、田中千秋少尉、三谷護二等兵曹を乗せた甲標的を発進させる。3日、搭載艇は駆逐艦、輸送船を含む複数の目標を発見し、しばらく観察した後輸送船へ向け魚雷2本を発射。1回の爆発音を聴取する。その後艇は米駆逐艦の追跡を受けるも損害を受けなかった。その後、エスペランス岬付近で浮上後艇が浸水したため、艇は自沈処理がされた。搭乗員はガダルカナル島に上陸した。伊20はトラックに戻った。

その後、伊20はゴム袋入りの輸送物資25トンを積んでトラックを出港し、31日にエスペランス岬沖に到着。輸送物資をおろした後出港し、トラックに戻った。1943年(昭和18年)1月2日、トラックを出港してショートランドに移動。ゴム袋入りの輸送物資18トンを積んだ後出港し、7日にエスペランス岬沖に到着。輸送物資を降ろした後出港し、ショートランドに戻った。20日、輸送物資18トンを乗せた特型運貨筒を曳航して出港[注釈 4]。22日にエスペランス岬に到着して特型運貨筒を切り離した後出港し、トラックに戻った。

3月18日、伊20は食糧と弾薬、計30トンを乗せてトラックを出港し、21日にラエに到着して輸送物資を降ろした後出港し、トラックに戻った。その後食糧と弾薬を乗せてトラックを出港し、27日にラエに到着して輸送物資を降ろした後出港し、トラックに戻った。その後、輸送物資37トンを積んでトラックを出港する。4月2日、ニューブリテン島南方沖で潜航中、同じく潜航していた伊16と接触事故を起こすが、幸い被害はなかった。3日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後、第18軍司令の安達二十三中将以下、第18軍首脳部を含む陸軍兵士39名を乗せて出港し[6]、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後、輸送物資30トンを積んでトラックを出港する。9日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍兵士42名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後、輸送物資37トンを積んでトラックを出港する。15日未明、ラエ付近で米哨戒機に発見され、照明弾を投下されて照らされたため潜航退避。その後ラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍兵士40名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後食糧と弾薬を乗せてトラックを出港し、20日にコロンバンガラ島に到着して輸送物資を降ろした後出港し、トラックに戻った。その後、輸送物資39トンを積んでトラックを出港する。5月2日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後、陸軍兵士31名を乗せて出港し、トラックに戻り便乗者を降ろした。その後、輸送物資39トンを積んでトラックを出港する。8日、ラエに到着して輸送物資を降ろした後出港し、20日に横須賀に到着して整備を受ける。

沈没

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8月4日、伊20は横須賀を出港し、10日にトラックに到着。航海中の9日、第一潜水隊は第一潜水戦隊に編入。

19日、伊20はトラックを出港し、ニューヘブリディーズ諸島周辺海域に進出。30日、エスピリトゥサント島付近で空母1、戦艦2からなる米機動部隊を発見。31日、南緯15度51分 東経167度02分 / 南緯15.850度 東経167.033度 / -15.850; 167.033のブーゲンビル海峡北方10浬地点付近で米タンカーW・S・リーム(W. S. Rheem、10,872トン)を雷撃し、撃破したという報告を最後に消息不明。

アメリカ側記録によると、9月3日19時35分、W・S・リームが被雷したことで哨戒中の米駆逐艦エレット英語版(USS Ellet, DD-398)のレーダーが12km先に光点を示したため、4600mの距離まで接近し、相手の潜水艦に対しモールス信号で応答を求めたが、応答はなかった。そのため照明弾を打ち上げたところ、3100mの距離で急速潜航していった。まもなく、270mの距離で潜航中の潜水艦をソナー探知し、20時12分に爆雷攻撃を開始。攻撃は20時38分まで続けられ、20時59分に潜水艦を見失った。翌日4日夜明けごろ、エレットは潜水艦のものと思われる破片と、大きな重油の帯が海上を漂うのを発見した。これが伊20の最期の瞬間であり、艦長の大塚范少佐以下乗員101名全員戦死。沈没地点はエスピリトゥサント島近海、南緯13度10分 東経165度28分 / 南緯13.167度 東経165.467度 / -13.167; 165.467

また、付近を行動中の伊182も、1日にW・S・リームが被雷したことで哨戒中の米駆逐艦ワズワース(USS Wadsworth, DD-516)の攻撃を受けて撃沈された。

25日、第一潜水隊の解隊に伴い、既に戦没していた伊20は書類上第二潜水隊に編入。

11月18日、エスピリトゥサント島方面で亡失と認定され、12月1日に除籍された。

撃沈総数は8隻であり、撃沈トン数は42,703トンである。撃沈隻数では帝国海軍潜水艦の中では伊165と並んで第5位を誇る(撃沈トン数の5位は47,942トンを撃沈した伊37)。撃破総数は3隻であり、撃破トン数は41,099トンである。

歴代艦長

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艤装員長

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艦長

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脚注

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注釈

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  1. ^ 搭載艇は戦後の2002年平成14年)8月28日、真珠湾の沖4.8km、水深400mの海底に沈んでいるのが発見された。
  2. ^ その後ブリティッシュ・ロイヤルティは浮揚修理され、アッドゥ環礁に移動。同地でUボートU-183の雷撃を受けて大破。応急修理後燃料油貯蔵船となり、戦後の1946年(昭和21年)1月5日に浸水により沈没した。
  3. ^ その後浮揚されたマハバは機関部の損傷が著しいため、航行不能のままハルクとして使用された。戦後の1946年(昭和21年)7月14日に海没処分となっている。
  4. ^ この任務が特型運貨筒を使用した初めての輸送任務となる。

出典

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  1. ^ 雑誌「丸」編集部 1990, p. [要ページ番号].
  2. ^ 海軍省 1940, p. 70『昭和十三年九月二十日(内令八〇五)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦一等ノ部中陽炎型ノ項中黒潮ノ下ニ「、親潮、夏潮、初風」ヲ加フ|潜水艦一等ノ部伊一六型ノ項中伊號第十六ノ下ニ「、伊號第十八、伊號第二十、第二十二」ヲ加フ|掃海艇第七號型ノ項中第十號ノ下ニ「、第十一號、第十二號」ヲ加フ』
  3. ^ Smith 2009, p. 138.
  4. ^ 中村 2007, p. 131.
  5. ^ 中村 2007, pp. 131–132.
  6. ^ 日本海軍潜水艦史刊行会 1979, p. 412.
  7. ^ 海軍辞令公報(部内限)第534号 昭和15年9月27日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078900 
  8. ^ a b c d e 外山 2005, pp. 417–418.

参考文献

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この節には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年2月)
  • 海軍省『海軍制度沿革』 巻8、海軍大臣官房、1940年。NDLJP:1886716 
  • 雑誌「丸」編集部 編『潜水艦』光人社〈写真 日本の軍艦 第12巻〉、1990年7月。ISBN 4-7698-0462-8 
  • 『日本海軍潜水艦史』日本海軍潜水艦史刊行会、1979年9月。全国書誌番号:80005597 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年6月。ISBN 4-7698-1246-9 
  • 中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社〈光人社NF文庫, [なN-533]〉、2007年6月。ISBN 978-4-7698-2533-3 
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年12月。ISBN 4-584-17054-1 
  • Peter C. Smith (2009年7月16日). Battleships at War: HMS Royal Sovereign and Her Sister Ships. Pen & Sword Maritime. ISBN 978-1-84415-982-6 
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