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久保正雄

久保 正雄(くぼ まさお、1921年[1] - 1984年11月7日[出典 1])は、日本の実業家政商[出典 2]。東日貿易創業者で[出典 3]自民党政権伊藤忠商事に太いパイプを持ち[出典 4]インドネシアの戦後賠償ビジネスで巨万の富を得た人物[出典 5]

来歴

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1921年大正10年)[1]東京深川生まれ[10]戦後韓国から海苔[1]アメリカインドギリシャなどからの食料品雑貨輸入業に手を染め[10]高級乗用車が不足した時代に、GHQ軍人や来日牧師らの名義でアメリカの高級車を輸入し[出典 6]東芝など日本の大企業などに転売して荒稼ぎしたし[出典 7]。この時期に町井久之と知り合ったとされる[8]1955年東京銀座資本金5,000万円で東日貿易を設立した[10]株主には大野伴睦河野一郎児玉誉士夫らが名を連ね[出典 8]、東日貿易は、自民党の裏の政治資金ルートの一つになった[4]。また同じ銀座をシマにしていた当時貧乏のどん底にあった小林楠扶を支援した[10]。小林は住吉会暴力団員[8]1958年、久保はインドネシア駐日代表を通じて、児玉誉士夫から同年2月に非公式での来日が決まったスカルノインドネシア大統領護衛の手配を要請された[出典 9]。インドネシアは、スカルノの傑出した政治力によって東南アジア最大の国家の統一が成し遂げられたが[出典 10]、国内では内乱が続き、反スカルノ派が日本でスカルノの暗殺を企てているとの情報も流れ、日本政府も対応に苦慮した[出典 11]。そこで久保がスカルノの護衛を小林楠扶に依頼[出典 12]。小林は気が進まなかったが、衛藤豊久や村田勝志が「名誉なこと。やりましょう」などと、積極的で仕方なくこのミッションを引き受け、私設銀座警察の流れを汲む小林たちは[出典 13]、首相としては初の来日だったスカルノの身辺警護を無事務め、信頼を得た小林たちは、以後11回に及ぶスカルノの来日の度に、小林会・楠皇道隊(日本青年社の前身)がスカルノのボディーガードを務めた[10]。この実績により、久保は小さな商社の社長ながらインドネシアの補償プロジェクトに広範に食い込んでいく[7]

スカルノは訪日の度に、各国選りすぐり美女を常に従えており[11]、1959年6月のスカルノの公式としては2度目の来日時に久保はスカルノから「日本女性を紹介してくれ」と頼まれたため[出典 14]赤坂ナイトクラブ「コパカバーナ」のホステス・根本七保子をスカルノに帝国ホテルで引き合わす[出典 15]。久保の知り合いで英語が喋れる美人はほとんどいなかった[4]。東日貿易の部下・桐島正也に帝国ホテルに向かう車中で、根本には事前に「色の黒い人」とだけ伝えた[4]。根本は相手がスカルノとは知らなかったが、社用でホテルを訪れたような恰好をさせて、スカルノの副官に引き継いだ[4]。根本は当時19歳[出典 16]。根本が育った東京市霞町(現在の西麻布)は[出典 17]米軍施設があり、英語を学ぶために米兵に接近したといわれる[7]東映の俳優養成所に通い[7]女優としてチョイ役で数本映画に出演したが[7]、それだけでは生計が立てられず、フィリピン人歌手の紹介で、東京に住む外国人ビジネスマンなどをパトロンに持つようになった[出典 18]。17歳から「コパカバーナ」でホステスとして勤め[出典 19]、その段階で久保と知り合っていた[7]

帰国後、スカルノは根本に書簡を送り、インドネシアへ是非来て欲しいと招待した[出典 20]。当時のインドネシアは政情不安定でもあり、久保は根本に現金500万円と世田谷区等々力の100土地を渡し説得[出典 21]海外への渡航が非常に制限された時代だったが[出典 22]、根本は東日貿易の社員という身分で旅券を申請し、1959年、久保、桐島とともにインドネシアの首都ジャカルタ入りした[出典 23]。スカルノのもとには既に東日貿易のライバルで岸信介とも関係の深い木下商店(木下産商)[注釈 1]から周防咲子(金勢咲子)ら[出典 24]、日本の商社が小林喜子、中田康子らスカルノ好みの美女を次々送り込んでおり[出典 25]、賠償プロジェクトへの参入を巡って激しい競争が展開されていた[7]。根本は二週間という約束の滞在だったが、スカルノの熱心な要望でそのままジャカルタに腰を落ち着けた[7]。根本のジャカルタ滞在中に周防が自殺[出典 26]。中田は行方不明になった[11]イスラム社会では正式に4人まで妻を持つことができるため、1962年3月、根本は日本国籍を捨てイスラム入信し、39歳年上のスカルノの第三夫人になり、ラトナ・サリ・デヴィ(以下、デヴィ)の名前を与えられた[出典 27]。英語が堪能で、頭が良く、外交的な性格で接客にも優れていたデヴィは、スカルノの外遊の際にはほとんど同行するようになり[7]、スカルノから特別な寵愛を受け、ジャカルタのヤソオ宮殿[注釈 2]に住み[出典 28]、さまざまな意味で戦略的な地位を与えられ、日本政府にも大きな影響力を持つに至った[出典 29]。その存在が秘密だった頃は、桐島らが同行し、デヴィは桐島夫人としてレセプションなどに出席した[7]。斉藤鎮男在ジャカルタ大使館大使は、デヴィルートでスカルノとの面会を求めるほど[出典 30]。当然ながら久保も大きな権力を持ち、スカルノからの個人的信頼が極めて厚いことを利用して、自身を通さないとビジネスが上手くいかないと言われるほどになり[7]、インドネシア利権を牛耳るようになった[出典 31]。久保はスカルノから最初に、インドネシアのイスラム教徒中東メッカにお参りする巡礼船を、賠償金の一部で日本からチャーターする仕事を貰う[出典 32]。久保は横井英樹東洋郵船社長に掛け合い、同社所有の興安丸をインドネシア政府に貸し出した[出典 33]。スカルノ大統領一行と一緒に帝国ホテルに宿泊した際には、久保に来客がひっきりなしに訪れ、伊藤忠商事東京支社航空機部次長・瀬島龍三の部下・小林勇一を8時間も待たせたほどだった[4]戦時中のインドネシア占領支配に対する補償問題は、1957年11月、岸信介首相とスカルノ大統領との会談で、総額803億円を日本側が支払うことで合意したが[出典 34]、以降の追加賠償を含め、総額は2,880億円に上り[出典 35]、2017年の貨幣価値にすると、20兆から30兆に及ぶ途方もない金額になった[8]旧日本軍に助けられたと公言するスカルノは、日本政府に対してこの内の803億円相当の賠償については、12年間に毎年2,000万ドルを「現物」で支払うという好条件を提示した[出典 36]。インドネシア政府が必要な物資などを日本企業に注文し、代金の支払いは日本政府が保証するという、日本の商社にとってはインドネシア政府からの注文を取り付けさえすれば、焦げ付きの危険もなく、代金の取りはぐれもない、うま味の多い商売だった[出典 37]。各商社はその巨額利権を巡って争奪戦を繰り広げた[出典 38]。伊藤忠はそれまでインドネシア政府とツテがなかったが、瀬島が辻政信からスカルノ政権へのパイプを聞き出し、1960年夏、久保は伊藤忠とのタッグの申し出を承諾し、伊藤忠によるインドネシアの賠償ビジネスがスタートした[出典 39]。東日貿易のような小さい会社ではメーカーに信用されないため[4]、久保としても大手商社と組むしかなかった[4]。スカルノからの仕事の依頼は、久保を通じて桐島たちがまとめ、瀬島に伝えるという形をとった[4]。また瀬島も1961年にオランダ植民地のイリアンジャヤ領有を巡る紛争で、インドネシア国家幹部に呼ばれて作戦をアドバイスするなどインドネシア政府から信頼を得るまでになった[4]。こうして賠償ビジネスの窓口は、木下産商から伊藤忠に舵が切り換えられた[出典 40]。インドネシア国家警察にトヨタジープなど車両千台、800万ドルの納入を手始めに[出典 41]、東日貿易と伊藤忠とのインドネシア賠償ビジネスは急速に拡大した[4]。以降、紡績プラント、独立記念塔・モナス、大統領宮殿ゲストハウス、国営テレビ局建設など、賠償絡みの仕事を久保は伊藤忠に次々に仲介し[出典 42]、その都度水増ししたコミッションを要求した[4]。久保は頭がよく、気も強く、気に入らなければ社員をぶん殴るような人だったといわれる[4]。久保は大野伴睦や河野一郎の他、瀬島を通じて中曽根康弘中川一郎たちとも親しくなり[8]、瀬島とともに財界後援親睦組織「中中会」を旗揚げした[8]。日本政府も久保やデヴィを頼りにし[17]、岸の後の首相・池田勇人は、東南アジア各国への賠償プロジェクトを「所得倍増計画」に組み入れ[18]、日本の通商政策、経済協力案件の組成を完遂させようとした[出典 43]親米の池田は[出典 44]、特に中国の影響が強く、西側諸国との関係が好ましくないインドネシアやビルマなどを賠償などの経済的援助によって、両国を中国から引き離し、自由世界に引き込みたいと考え[出典 45]、スカルノを繋ぐ仲介役をデヴィに頼んだ[17]。デヴィは「池田首相と家族ぐるみの付き合いがあった」「日本外務省にはこき使われました」などと話した[17]1963年9月の池田のインドネシア公式訪問も[出典 46]、デヴィが手引きし[7]、日本からの賓客にはほとんどデヴィが同席した[7]。1963年にインドネシア初のデパートサリナ・デパート」建設を巡り[出典 47]、久保が伊藤忠から預かった金を半分懐に入れたことがバレ[出典 48]、デヴィや久保の側近たちも久保から離れた[出典 49]。また伊藤忠も賠償ビジネスを韓国に軸足を移していたこともあり[4]、久保から離れた[4]

芸能人・スポーツ選手との関係

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賠償ビジネスで巨万の富を得た久保は[出典 50]、政財界に人脈を広げていく一方、江利チエミ長嶋茂雄高倉健らの親代わり[出典 51]、後ろ盾としても知られるようになった[出典 52]。久保の最初の妻・笑子はアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)のトップダンサー[1]、笑子は、江利が進駐軍キャンプで歌を歌っていたときからの大ファンだったことから[8]、夫婦ともども江利をバックアップするようになった[8]。久保は元々、長嶋の大ファンで[8]町井久之六本木に作った社交クラブに、渡辺恒雄らとクラブの運営委員を務めたあたりから、読売ジャイアンツの後援者として知られるようになったが[8]、直接長嶋と知り合ったのは、長嶋と噂された某女優からの紹介とされる[1]。1965年に長嶋が西村亜希子挙式した際は、久保が長嶋の親代わりとして出席した[1]。久保は長嶋の長男・長嶋一茂の名付け親である[8]張本勲は長嶋からの紹介で久保邸に出入りするようになった[1]1975年の張本の巨人移籍は久保の仲介によるもの[出典 53]

高倉健は東映に入社してしばらくの間、久保邸に居候した[出典 54]。高倉が久保と知り合った経緯は分からないが、長嶋と高倉を繋いだのは久保である[出典 55]高樹町(現在の南青山)の久保邸は[8]、何10メートルという大理石が積み上げられた塀が続き[1]、敷地内には25メートルプールもあった[出典 56]西洋風の屋敷の1階から2階に延びる螺旋階段があり、訪れた人は「まるで『風と共に去りぬ』の舞台みたいだ」と驚いたという[8]応接室絨毯は足首が埋まるほど。そのような部屋が十数室もあり、お手伝いさんは常時5人いた[1]。2階にマージャン室、地下にはビリヤード場スポーツジムがあった[1]。ガーデンパーティには多い時は150人ほどの芸能人スポーツ選手が招かれ、有名人カップルのお忍びデートの名所にもなった[1]。中で何が行われてもマスメディアにも世間にも分からない上[1]有名人は外で目立って遊べないこともあり、久保邸には江利、長嶋、高倉を始め、張本、土井正三白井貴子ディック・ミネ谷隼人サミー・デイヴィスJr.[出典 57]、多くの有名人が集まって麻雀をしたり、酒を飲んだりして遊んだといわれる[出典 58]

1984年11月9日、10日に南青山の久保邸で行われた通夜告別式には[1]、長嶋や高倉、張本、瀬島は勿論、故中川一郎未亡人、市川右太衛門中村扇雀萬屋錦之介雪村いずみ井上順長嶋亜希子長嶋一茂らや[1]、多くの政財界の大物が弔問に訪れた[1]報道陣の質問に対してはみな押し黙ったが、張本は「いろいろと精神的なアドバイスを受けてきました」などと話した[1]。告別式の最後には中曽根康弘首相をトップに多くの弔電が読み上げられた[1]サミー・デイヴィスJr.四十九日の法要で、焼香のために来日した[3]

関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 木下茂が岩井商店(日商岩井)から独立して興した商社。後に三井物産に吸収される[8]
  2. ^ ヤソオはデヴィの自殺した弟の名前[15]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 「突然の訃報… 長嶋茂雄氏、高倉健らを悄然とさせた"親代わり"久保正雄の死 スポーツ界、芸能界に隠然たる影響力を行使しつつ…」『週刊宝石』1984年11月30日号、光文社、184–186頁。 
  2. ^ “死亡広告”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 23. (1984年11月8日) 
  3. ^ a b c d e 久保正雄という男がいた安倍寧オフィシャルブログ
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as 共同通信社 1999, pp. 12–65, 第一章 戦後賠償のからくり
  5. ^ a b c d e f g h 芸能界の“新・ご意見番”は「デヴィ夫人」 新井浩文、大沢樹生息子の逮捕にもコメント”. デイリー新潮. 新潮社. p. 3 (2019年2月25日). 2024年6月14日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 戦後日本のインドネシアへの経済進出過程 : 冷戦と脱植民地化の過程における民間経済外交CiNii国立情報学研究所 pp.7,83–97
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 倉沢 2011, pp. 216–237, 第4章 賠償の実施―1960年代の日イ関係 第3節 賠償期の日イ関係を支えた人たち
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 森 2017, pp. 166–194, 第五章 長嶋茂雄の親友
  9. ^ a b c d 吉田 2020, pp. 298–299, 谷隼人インタビュー 『だから言ってるじゃん、ハメる前にハメられたって 昔の東映は黒い交際だらけ
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n 山平 2023, pp. 119–129, 第二章 「銀座警察」と「銀座の黒豹」
  11. ^ a b c d e f 後藤山崎 2001, pp. 178–186, 第三世界のリーダーとして 西イリアン解放闘争
  12. ^ a b c d e f g h i 押谷盛利 (2008–07–07). “時評 戦後賠償の政治と利権”. 滋賀夕刊 (滋賀夕刊新聞社). オリジナルの2015年8月28日時点におけるアーカイブ。. https://archive.md/4WhNW#selection-1285.83-1285.87 2024年6月15日閲覧。 
  13. ^ a b c d e f g h i j 仁科友里 (2022年7月28日). “連載 第11回 名言ななめ斬り! デヴィ夫人の名言「男性から選ばれる女になること」”. マイナビニュース. マイナビ. 2024年6月14日閲覧。
  14. ^ a b 『神鷲商人 上』深田祐介 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS - 本の話【書評】『インドネシアと日本 ― 桐島正也回想録』倉沢愛子著(論創社、2011年)桐島正也さん死去 「神鷲商人」モデル
  15. ^ a b c d e f g h 大森実「我慢のならないデビの行状 最も親しかった僕も、もう黙っていられない」『週刊現代』1969年7月10日号、講談社、34-37頁。 
  16. ^ a b 池田総理大臣の西太平洋諸国訪問の再の各国政府との共同声明外務省
  17. ^ a b c “デヴィ夫人、首脳外交に一役/池田首相の伝言取り次ぐ”. 四国新聞 (四國新聞社). (2008–12–22). https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/print.aspx?id=20081222000008 2024年6月15日閲覧。 
  18. ^ a b c 再考・池田政権と東南アジア、CiNii、国立情報学研究所 pp.225,236–238
  19. ^ a b 池田政権と高度経済成長:外交・内政における経済成長ファクターの再検討、CiNii、国立情報学研究所 pp.99–100
  20. ^ 池田勇人』 - コトバンク
  21. ^ 宏池会五十周年”. 上川陽子公式サイト (2007年5月21日). 2024年5月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月15日閲覧。
  22. ^ 林 1968, pp. 477–484, アジアとの外交
  23. ^ 波多野 2004, pp. 135–141, 第3章「南北問題」と東南アジア経済外交(高橋和宏)
  24. ^ a b 竹中労「座談会 ナレ合い芸能記事の製造工程 どこを向いても"御用記者"だらけー第一線のコワモテ記者が、巧妙なカラクリを明かす」『噂』1971年12月号、噂発行所(梶山季之個人誌)、99–103頁。 
  25. ^ a b 王と長嶋〜プロ野球を国民スポーツにした2人の功労者〜(20) 背番号「89」に込められた二つの意味”. リアルライブ. フェイツ (2009年4月17日). 2024年6月15日閲覧。
  26. ^ a b 平嶋洋一「職業映画俳優。高倉健 スペシャルインタビュー 長嶋茂雄 『"シゲちゃん"から"健"さんへ』」『キネマ旬報』2015年1月下旬号、キネマ旬報社、26-27頁。 
  27. ^ 加東康一「BIG STAR/18 高倉健」『映画情報』1977年10月号、国際情報社、61頁。 
  28. ^ “一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!! 張本勲コラム「思い出深い2度のトレード。その際にかけられた温かい言葉は今も心に強く残っている」」『週刊ベースボールONLINEベースボール・マガジン社、2020年9月15日。2024年6月15日閲覧
  29. ^ 「人物リサーチ ナゼ離婚のうわさが出るのか 高倉健の4つの断面」『週刊平凡』1966年10月13日号、平凡出版、91頁。 
  30. ^ 小柳明人、山崎俊彦「全角度ワイド 選びに選んだ大情報集団10 王に代わって爆発!! 高倉健(46)が語ったオレの生きざま…」『週刊現代』1977年10月13日号、講談社、166-168頁。 
  31. ^ a b 大山勝美「大山勝美のテレビドラマ内緒ばなし(13) 冗談好きな高倉健」『週刊文春』1983年2月17日号、文藝春秋、72-73頁。 
  32. ^ 「『デビ夫人をインドネシアに送った男』が点滅する『財界裏面史』のいろどり」『週刊新潮』1979年1月4日号、新潮社、194頁。 
  33. ^ a b c d e f g 「NEWS OF NEWS あのデビ夫人がクビをタテに振るか?」『週刊読売』1975年10月4日号、読売新聞社、31頁。 
  34. ^ a b c d e f g h “テレビトピックス 敬遠された『デビ夫人』の役”. スポーツ報知 (報知新聞社): p. 15. (1976年8月16日) 
  35. ^ a b c デヴィ夫人と「言論の自由」”. BLOGOS. LINE Corporation (2014–02–21). 2024年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月15日閲覧。
  36. ^ 高田 2014, pp. 174–177, 日本の首領 野望篇

出典(リンク)

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参考文献

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