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ゲーベン (巡洋戦艦)

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竣工直後の巡洋戦艦「ゲーベン」
艦歴
発注: ブローム・ウント・フォス
起工: 1909年12月7日
進水: 1911年3月28日
就役: 1912年7月2日
退役: 1954年
その後: トルコ海軍へ1914年8月16日売却
1973年から1976年にかけて解体
除籍: (退役と同年)
性能諸元
排水量: 常備 22,979トン、満載 25,400トン
全長: 186.5m
全幅: 29.5m
吃水: 9m
機関: シュルツ・ソーニクロフト式石炭専焼水管缶24基(1930年に石炭・重油混焼缶に改造)
+パーソンズ式低速タービン2基&高速タービン2基4軸推進
最大出力: 52,000hp(1930年:82500hp)
最大速力: 28.4ノット(公試記録)[注釈 1]
航続距離: 14ノット/4,120海里
燃料: 石炭:3,100トン
乗員: 1,053名
兵装: SK L/50 28 cm(50口径)連装砲5基
SK L/45 15 cm(45口径)単装砲12基
SK L/45 8.8 cm(45口径)単装砲12基
50 cm水中魚雷発射管単装4門
(1930年代以降:SK L/50 28 cm(50口径)連装砲5基
SK L/45 15 cm(45口径)単装砲10基
SK L/45 8.8 cm(45口径)単装高角砲8基
40mm機関砲単装12基)
装甲: 舷側装甲:100~120~270mm(水線面)、
200mm(第一甲板舷側部)、
50mm(弾薬庫水線面下部)、
30mm(機関区水線面下部)
甲板装甲:50mm
主砲塔装甲: 230mm(前盾)、
200mm(側盾)、
170mm(後盾)、
130mm(天蓋)
副砲ケースメイト装甲: 150mm
バーベット部:230mm
司令塔:350mm(前盾)、
250mm(側盾)、
-mm(後盾)、
60mm(天蓋)

ゲーベンドイツ語:Goeben)は、ドイツ帝国海軍 (Kaiserliche Marine) の巡洋戦艦[2]モルトケ級巡洋戦艦の2番艦で[3]姉妹艦モルトケ (SMS Moltke) [注釈 2]。 1912年7月に竣工したが、間もなくドイツ地中海戦隊に配属されて地中海に展開し、砲艦外交をおこなった[5]第一次世界大戦勃発直後、イギリス海軍地中海艦隊の追跡を受けてダーダネルス海峡を通過、オスマン帝国の領海に逃げ込む[6][注釈 3]ドイツ帝国からオスマン帝国に売却され、16世紀スルタンセリム1世にちなんでヤウズ・スルタン・セリムトルコ語: Yavuz Sultan Selim)と改名された[注釈 4]。「ヤウズ」は、スルタン・セリム1世のあだ名で、トルコ語で“冷酷な者”の意味である。

ヤウズ(ゲーベン)とミディッリ(ブレスラウ)はオスマン帝国海軍主力艦となり、イギリス海軍ロシア帝国海軍黒海艦隊)を相手にして活躍した[9]地中海の戦いで幾度も損傷するが[4]、世界大戦を乗り切った。第一次大戦終結後にトルコ革命が勃発してトルコ共和国が成立すると、トルコ海軍所属となる[10]。トルコ共和国所属時の艦名はヤウズ・セリム (Yavuz Selim) で、1936年ヤウズ (Yavuz) と改名された[11]。二次にわたる近代化改装を経て第二次世界大戦後まで運用された。対空火器を増強し、射界を妨げる後部マストを撤去した程度で、竣工時と変わらない姿を保っている[12]。1960年代に除籍され、1973年に解体された[10]

ドイツ海軍時代

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本艦はブローム・ウント・フォス社によってハンブルク造船所で建造された。ゲーベンとは、普仏戦争で活躍したアウグスト・カール・フォン・ゲーベン(de:August Karl von Goeben)にちなんで命名されたものである。本艦は、ドイツ帝国の海外侵食に押される形で[13]第一次バルカン戦争の最中に新編成された地中海戦隊 (Mittelmeerdivision) の旗艦として配備される[5][注釈 5]1912年11月上旬にドイツ本国を出航し、道中を完熟訓練の場として地中海に到着した[1]マルタ島バレッタ港で、地中海戦隊所属の新鋭軽巡[15]ブレスラウ (SMS Breslau) に合流する[16][注釈 6]。ドイツ地中海戦隊の新鋭艦2隻は「お披露目」として各地を周り、ギリシャブルガリアイタリアエジプトを歴訪、1914年5月にはイスタンブールを訪れた。またヴィルヘルム2世が地中海を訪問した際には、ドイツ皇帝の臨時の御召艦となった[19]

ゲーベンは竣工直後に地中海に派遣され、2年が経過しようとする1914年時点で機関部に故障を抱えていた[20]。1914年中期を目途に姉妹艦モルトケ (SMS Moltke) と地中海戦隊旗艦の役目を交代し、ゲーベンはドイツに帰国予定であった[20]。それでもオーストリア=ハンガリー帝国ポーラ軍港で修理をおこない、24ノット程度なら出せるようになったという[21]。同年7月28日オーストリア=ハンガリー帝国セルビアが戦争状態に入ると、本艦はドイツ帝国の参戦に備えてアルジェリア沖へ向かった[21]8月2日、地中海戦隊2隻はイタリア王国のメッシーナに入港し、石炭を積み込んだ[22]8月3日フランスへの宣戦後に、前日に締結されたドイツ帝国とオスマン帝国の同盟によって、イスタンブールへの回航を命じられた[23]

ゲーベンとブレスラウの逃走航跡図

ゲーベンは軽巡洋艦ブレスラウと共にアルジェリア沿岸を砲撃し、フランス陸軍の輸送を妨げようと試みた[24]。砲撃自体は成功したものの、肝心の陸軍はまだ移動前であったために被害は限定的なものであった[25]。むしろ、この行為は追っ手に自らの存在を証明する何よりの証拠となってしまった。この時点で、イギリス地中海艦隊インヴィンシブル級巡洋戦艦3隻・装甲巡洋艦4隻という強力な火力を持ち、高速軽巡洋艦4隻を擁する有力な戦力を持っていた。フランス海軍の地中海艦隊を考慮に入れると、ドイツ地中海戦隊の不利は明白だった[22]

勝ち目のないドイツ艦2隻は「逃げの一手」を打ち、地中海を彷徨った[26][27]。メッシーナを脱出後[28]、イギリス地中海艦隊の追跡を受ける[29]。 8月10日、ドイツ艦2隻はダーダネルス海峡に到達[30]、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルイスタンブール)に停泊した[31]。オスマン帝国に購入されたゲーベンは、8月16日をもってオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムとなった[32]。ブレスラウもオスマン帝国海軍のミディッリ (Midilli) と改名し[33]、引き続きヤウズ・スルタン・セリム(旧ゲーベン)と行動を共にした[34][注釈 7]。この時、両艦乗組員はそのままオスマン海軍に移り、引き続きドイツ人将兵(ズーホン少将、アッカーマン艦長)の手によって運用された[8][33]

ヤウズ・スルタン・セリム

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オスマン帝国「ヤウズ・スルタン・セリム」となった本艦。

オスマン帝国が、ドイツ帝国のゲーベンとブレスラウを自国海軍に編入したのには、次のような事情があった。

1900年代当初のオスマン帝国は、艦隊のほとんどの艦が型遅れの装甲艦と、小型で使いにくい水雷艇で構成されていた。さらに多額の経費を要してイギリスの支援により整備した造船所ドックは、維持運営に十分な予算もなく艦艇の整備が十分になされていない状態であった。更に国家財政の極度の悪化から、イタリア海軍が艦隊を整備したり、ギリシャ海軍が列強から新鋭艦を購入し増強されていくのに対抗しようにも、新鋭艦の購入など見込めない状態であった。コンスタンティノープルの造船所で1892年から建造を始めた前弩級戦艦アブデュル・カーディル (Abdül Kadir) ですら、完成の見込みが立たなかった。

国内情勢も不安定であり、1908年7月に青年トルコ人による青年トルコ人革命が勃発する[35]。同年12月に憲政トルコが復活し[36]イギリスはとりあえずドイツ帝国との外交でバルカン半島火薬庫を平穏に保とうとする[37]。 オスマン帝国の混乱は続き、翌年4月には皇帝アブデュルハミト2世(第34代)が追放されメフメト5世(第35代)が即位した[38]トルコ民族意識の高揚と共に諸外国との関係も悪化し、バルカン半島の秩序を維持していたベルリン会議ベルリン体制)は崩壊するに至った[39]。1911年9月にはイタリア王国との間で伊土戦争が生起する[40][注釈 8]。 1912年にロシア帝国の主導によりバルカン半島各国がバルカン同盟を締結すると(南下政策ロシアとトルコの関係[注釈 9]バルカン戦争第一次〈1912年10月~1913年5月〉、第二次〈1913年6月~同年8月〉)が勃発した[44]。一連の戦争で、当時のオスマン帝国海軍の貧弱さが露見し、伊土戦争のプレヴェザ海戦英語版イタリア語版クンフィダ湾海戦イタリア語版英語版では、オスマン帝国海軍がイタリア王立海軍 (Regia Marina) に大敗した。

このような状況下、オスマン帝国海軍の窮状は1900年代になって国民の知るところとなり、有志により「オスマン艦隊国民援護協会」が設立され、全国民に海軍整備のための寄付が募られた。大型軍艦購入の機運が高まる。ギリシャ王国イタリア王国からピサ級巡洋艦イェロギオフ・アヴェロフ (Γεώργιος Αβέρωφ) を購入した際[注釈 10]、トルコ側は1910年(明治43年)7月に珍田在ドイツ日本大使を通じて、日本海軍巡洋戦艦を購入することを打診した[注釈 11]。 日本海軍に巡洋戦艦輸入は断られたが[47]、トルコ政府はドイツ帝国から戦艦の購入に成功する[48]ブランデンブルク級戦艦2隻を一隻100万リラ(1800万マルク)で購入し[注釈 12]、それぞれ装甲艦バルバロス・ハイレッディン (Barbaros Hayreddin) (旧名:クルフェスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム) 、装甲艦トゥルグト・レイス (Turgut Reis) (旧名:ヴァイセンブルク) と命名した。トゥルグート・レイス級装甲艦2隻は、1910年8月21日に海軍に編入された。その後さらに寄付は集まり、ドイツ帝国海軍よりS165級大型水雷艇駆逐艦)4隻を購入した。

オスマン帝国がドイツ帝国から輸入した戦艦2隻は、前弩級戦艦だった[49]。オスマン帝国軍はドイツ帝国軍の影響を強くうけたが、オスマン帝国海軍はイギリス海軍の支援を受けていた[50]。イギリスのヴィッカーズ社と交渉をおこない、レシャディエ級戦艦英語版トルコ語版の建造が決定する[注釈 13]。 この超弩級戦艦34.3cm砲10門を持ち、1番艦にレシャディエ (Reşadiye) の艦名を冠した[52]。 加えてブラジルが手放した建造中の30.5cm砲14門を備えた弩級戦艦リオデジャネイロ (Rio de Janeiro) を購入し[53]、スルタン・オスマン1世 (Sultan Osman-ı Evvel) と命名した[注釈 14]

しかし、両艦(レシャディエ、スルタン・オスマン1世)が完成して引渡し直前に[6]、イギリス政府は戦艦2隻を接収する[55]。ドイツとオスマン帝国が秘密裡に締結した同盟英語版ドイツ語版も、イギリスの決断に影響した可能性がある[31]。イギリスはレシャディエを戦艦エリン (HMS Erin) と改名、スルタン1世を戦艦エジンコート (HMS Agincourt) と改名[56]イギリス海軍に編入した[注釈 4]。この行為にオスマン帝国の世論は激昂し、イギリスへの強い不信感が露わとなり、反英感情が国民に芽生えた[6]

そのような空気の中、親交のあったドイツ帝国から最新鋭の巡洋戦艦と軽巡洋艦がやってきたこととなる[57]。もし本艦がコンスタンティノープルに到達しなかったら、イギリスの戦艦接収事件は忘れられたかもしれない[31]。イギリス政府は硬軟取り混ぜてイスタンブール水域からのドイツ地中海艦隊の退去を求めた[55]。イギリスの呼びかけに対し、当時オスマン帝国の実権を握っていた青年トルコ党政権は自らの親独的な立場から、この国民の反英感情を背景に両艦の自国海軍編入を主張し、ドイツに接近を図ることとしたのである。

金角湾のオスマン艦隊。中央がヤウズ・スルタン・セリム、肖像は当時のスルタン・メフメト5世

こうして買収されたヤウズ・スルタン・セリムは、オスマン帝国海軍の主力として地中海攻防戦イタリア語版トルコ語版に従事し、主に黒海で活動することになった[32][注釈 15]

1914年10月29日、オスマン海軍は黒海沿岸のロシア帝国領各地を襲撃英語版した[59]。ヤウズ・スルタン・セリムは駆逐艦サムスンとタショズを伴ってセヴァストーポリの砲撃を実施したが、砲台の反撃で被弾し退避した。帰路、ロシア帝国海軍の機雷敷設艦プルートを撃沈し駆逐艦レイテナーント・プーシチンを損傷させた。また、汽船Idaを拿捕した。オスマン帝国海軍による攻撃はロシアの宣戦布告を招き[60]、第一次世界大戦にオスマン帝国も参戦することとなった[61]

11月18日、ヤウズやミディッリはサールィチ岬の海戦を戦った[62]。本艦は30.5cm砲弾を受けて小破し死者13名、負傷者3名を出した。12月、ヤウズ・スルタン・セリムは輸送船の護衛とバトゥミ砲撃を行った。それからの帰路、12月26日ボスポラス海峡の入り口付近でロシア艦艇の敷設した2発の機雷を両舷に一個ずつ触雷した[63]。合わせて2,000トンの浸水が発生。修理中に度々出撃を重ねたために完了までに数ヶ月の修理を要することとなった。当時のオスマン帝国海軍の工廠には本艦が入渠できる規模のドックがなく、オスマン帝国海軍はボスポラス海峡ステニア湾にドイツ人技術者の協力下で大型のケーソンを製作し、本艦の損傷箇所の修理を行った[63]。本艦はこの後も1918年にセヴァストーポリで入渠するまで入渠修理の機会が得られず、艦底や機関の状態は次第に悪化していった。同時に、オスマン帝国を巡る戦局も悪化していった[64]

ボスポラスに停泊するゲーベンとブレスラウ。(1915年)

1915年4月に復帰し商船2隻を撃沈するが、ボスポラス海峡口におけるロシア主力艦隊との戦闘で被弾損傷した。8月23日のケフケン島沖海戦では、ロシア帝国海軍の水雷艇や潜水艦と交戦した。さらにロシア黒海艦隊にインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦2隻が就役して配備されると、優位が揺らいだ[65][注釈 16]1916年1月8日、ヤウズ・スルタン・セリムはケフケン島英語版トルコ語版沖にてロシア弩級戦艦インペラトリーツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ交戦した[67]。この戦闘では双方とも命中弾はなかったが、ロシア黒海艦隊の優位は明白となった。またロシア海軍の水上機母艦複数隻も活動を開始しており、オスマン帝国軍の脅威になっていた[68]。2月、ヤウズ・スルタン・セリムはトラブゾンへ兵員や兵器等を輸送した。7月4日、ヤウズ・スルタン・セリムはトゥアプセを砲撃し、2隻の船を沈めた。

ロシア帝国海軍との戦闘は、ロシア革命によって区切りがついた[69]。ヤウズとロシア戦艦は、お互いに決着をつけられないまま終わった[70]。 1917年12月、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリによる地中海への出撃が決定された[71]。この作戦の参加艦艇は2隻のほか水雷艇4隻と潜水艦1隻であった[71]。作戦に先立ち参加艦艇はまずゾングルダクへ行き石炭を補給[71]

1918年に撮られた「ヤウズ・スルタン・セリム」

1918年1月18日に演習名目でマルマラ海への集結命令がだされ、1月19日に各艦は指定場所へと向かった[71]。イギリス戦艦2隻(アガメムノンロード=ネルソン)が不在だったので、オスマン帝国の巡洋戦艦が暴れまわる機会が巡ってきたのである(イムブロス島沖海戦英語版トルコ語版)。同日16時にはダーダネルス海峡へ向け出発し、20日6時前には海峡から出た[72]。水雷艇は低速などを理由に海峡入り口でヤウズ・スルタン・セリムおよびミディッリと分離された[73]。6時10分にヤウズ・スルタン・セリムが触雷したが[72]、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはインブロス島へむかい、そこで敵艦船などを攻撃した。ヤウズ・スルタン・セリムはまず商船や通信施設を攻撃し、それから先行していたミディッリとともにイギリスのモニターM28英語版9.2インチ砲)と、14インチ(35.6センチ)砲を装備したアバクロンビー級ラグラン (HMS Raglan) を撃沈した[74][注釈 17]。それから2隻は新たな目標を求めてリムノス島ムドロス湾へむかったが、その途中でミディッリが触雷し、その救援活動中にヤウズ・スルタン・セリムも触雷[76]。ミディッリはさらに触雷し、敵艦隊の来襲の恐れなどがあることからヤウズ・スルタン・セリムはその場を離れて帰路についた[77]。ミディッリはこの後にも触雷し、沈没した。9時48分にヤウズ・スルタン・セリムも3度目の触雷をしたが、無事にダーダネルス海峡入り口に到着した[78]。だが、11時32分に海峡内で座礁し、装甲艦トゥルグート・レイスなどの助けを借りて、1月26日に離礁に成功するまで何度も爆撃を受け、300以上投下された爆弾のうち2発が命中した[79]。ヤウズ・スルタン・セリムを空爆したのは、イギリス海軍の水上機母艦アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal) から発進した水上機であったという。

4月末には、防護巡洋艦ハミディイェとともにセヴァストーポリを砲撃し、終戦まで同港に進駐した。

ヤウズ

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1936年にマルタ島で撮影されたヤウズ。
1946年に撮影されたヤウズ。迷彩塗装が施されている。
イスタンブールに停泊するヤウズ。後檣が撤去されている。(1946年)
ゴルジュク市街に展示されているヤウズのスクリュープロペラ

1918年10月30日、オスマン帝国の使者がイギリス戦艦アガメムノン (HMS Agamemnon) を訪問し、地中海艦隊司令長官カルソープ提督は単独講和をむすぶ[80]ムドロス休戦協定[81]。1920年8月にはセーヴル条約が結ばれ[82]、オスマン帝国は連合国によって分割された[83]。第一次世界大戦は終結したが、バルカン地域ではアルメニア・トルコ戦争フランス・トルコ戦争英語版フランス語版トルコ語版ギリシャ・トルコ戦争が勃発し[84]、相変わらず不安定であった[85]。オスマン帝国がトルコ革命によって滅亡し、アンカラ政府が承認されてトルコ共和国が成立する[86]。旧オスマン帝国海軍の艦船はトルコ海軍の管轄下に入る。ローザンヌ条約により、トルコ共和国は連合国から主権国家として認められた[87]。なお一連の国際条約により賠償請求問題に決着がつき、戦艦レシャディエ(エリン)とスルタン・オスマン1世(エジンコート)を巡る金銭問題も解決した[注釈 18]

1926年から1930年にかけてフランスのサン=ナゼール・ペノエ造船所によってギョルジュク海軍工廠にて修理と平行して第一次近代化改装が行われ、石炭専焼主ボイラーを石炭・重油混焼缶へ改造する事により出力・速力の改善がなされた。また、射撃指揮装置の更新、更に大戦の戦訓により水中魚雷発射管の撤去による水雷防御の向上がはかられ、8.8cm高角砲や40mm機関砲を装備して対空攻撃能力向上がなされた。

改装後にトルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ・セリム (Yavuz Selim) として再就役し、さらに1936年ヤウズ (Yavuz) と改名した。1938年ケマル・アタテュルクの遺体をイスタンブールからイズミットまで運んだことで、トルコではよく知られている。

ヤウズに大きな改装がなされることはなかったが、1941年の第二次近代化改装で対空射撃の障害となっていた後檣が撤去され、そのままの姿で第二次世界大戦後も在籍した[89]。第二次世界大戦でトルコ共和国は中立を表明したが、1945年2月23日に連合国として枢軸国ナチス・ドイツ大日本帝国)に宣戦布告した[90]第二次世界大戦の参戦国)。これは参戦が国際連合への参加条件だったこと、ソビエト連邦南下政策領土割譲要求脅威だったからである[91]

本艦は1948年には、軍事的というよりも既に象徴的な存在となっていたが、1952年にはNATOの艦番号370を付けられた。1954年に退役し予備艦となった後の1963年に、西ドイツ政府より購入の申し入れがあったがトルコ政府はこれを拒否した。1966年になると今度はトルコ政府より西ドイツへ売却が持ちかけられたが、当時の西ドイツの政治状況の変化により旧時代の記念艦に過ぎないヤウズが買収されることはなかった。結局、1971年に解体業者に売却され、1973年6月7日に港を離れた後、同年7月から1976年2月にかけ、両大戦を経験した最後の巡洋戦艦は解体された。

現在、トルコ海軍の母港があるコジャエリ県ゴルジュク英語版に、ヤウズのスクリュープロペラが展示されている。

出典

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  1. ^ 装甲巡洋艦ゲーベン[1] 進水1911年3月28日/建造所プローム、ウンド、ボス會社(ハンブルグ)/排水量23,000噸/全長186米/速力29節/兵装 五〇口徑二十八糎砲十門 四十五口徑十五糎砲十二門 四十五口徑八.八糎砲十二門 發射管四門/乗員1013人
  2. ^ 巡洋戰艦ヤゥーズ・サルタン・セリム(一九一二年七月竣工)[4] 排水量二二六四〇噸、時速二五節半。一九〇九年度獨逸海軍計畫の下に築造されモルトケ號の姉妹艦なりしも一九一四年土耳古へ譲渡された。大戰中五回に渉つて水雷にかゝりし大被害を蒙る。
  3. ^ 今回ノ戰爭中東部地中海方面ニ於ケル作戰ノ梗概[7](中略)戰爭ノ初メニ獨逸ノ地中海艦隊デ御座リマシタ巡洋戰艦「ゲーベン」、巡洋艦「ブレスロウ」ノ二隻カ英佛艦隊ヨリ遁レテ「ダーダネルス」海峡ニ入リマシテ以来聯合與國ノ海軍ニ於キマシテハ地中海ニ於テモ北海方面ト同様敵ノ艦隊ヲ其根據地ニ封鎖スルノ策ヲ立テマシタ(以下略)
  4. ^ a b トルコ當局は敵諸國大使に對し、軍艦ゲーベン及ブレスローの入航は、トルコが之を買上たるによるものなり、との説明を與へ、兩艦を以てかねて英國に於て建造中なりしトルコの新建造艦ズルタン・オスマン及レシャト五世の二隻が開戰と同時に、英海軍に徴發せられたるを以て其の代艦たるものなり、と主張せり。茲に於て英國はトルコに對し、戰後同價値なる代艦を引渡すべしと誓約したるにも拘はらず、トルコは兩艦はトルコの所有に轉じたりとの口實を設けて敢て動かざりき。兩艦は八月十六日トルコ旗を掲げ、同日首都の沖合に投錨し、トルコ人士官及兵員若干を配乗せしめたる後、海軍大臣は艦上に嚴粛なる儀式を擧げて兩艦の虚構なる移管を行ひ、軍艦ゲーベンにはヤブス・ズルタン・ゼリムなる艦名を ブレスローにはミデイリなる艦名を與へ、戰隊司令官ズーホン提督を、トルコ海上諸艦艇の指揮官に任命せり[8]。(以下略)
  5. ^ 新編時の司令官はコンラッド・トムラードイツ語版少将であった。1913年10月よりスション少将となった[14]
  6. ^ 第二次世界大戦でドイツ海軍 (Kriegsmarine) を率いたカール・デーニッツ元帥が、海軍中尉として勤務していた[17]。ブレスラウも1912年11月上旬にドイツを出発し、マルタに先着していた[18]
  7. ^ 第一次バルカン戦争の敗北とロンドン条約によりギシリャ領になったレスボス島の、オスマン帝国側の呼称である[8]
  8. ^ 欧州列強の仲介により停戦協議がはじまり、ローザンヌ条約 (1912)イタリア語版トルコ語版によりオスマン帝国の敗戦で終わった[41][42]
  9. ^ バルカン同盟を締結したのは、ギリシャ王国ブルガリア王国セルビア王国モンテネグロ王国の4ヵ国であった[43]
  10. ^ 武装巡洋艦アヴエロツフ(一九一〇年三月進水)[45] 排水量九四五〇噸、時速二二節半。伊太利の同種艦ピサの姉妹艦。三六吋探照燈二基を有す。
  11. ^ トルコ側が希望したのは「其ノ語氣ヨリ察スルニ伊吹鞍馬型巡戦生駒筑波型巡戦)ノ如キモノヲ希望シ居ルカ如シ」であったという[46]
  12. ^ (珍田在ドイツ日本大使報告より抜粋)[48](中略)以上ハ軍艦ノ譲渡並ニ外交官ノ交換ニ関シ土耳古大使ト為シタル談話ノ要領ニ有之尚土耳古政府ハ軍艦ノ譲渡ニ付其後再ヒ独逸国政府ト交渉ヲ遂ケタルモノト見ヘ本月五日終ニ「ヴイセンブルグ」及「クールフェルスト、フリードリッヒ、ウヰフヘルム」ノ二艦ヲ千八百萬麻克ニテ買入ノ契約ニ調印致候而シテ當國ノ諸新聞紙ハ独逸國ガ之ニ依リテ何等戰闘力ヲ減殺スルコトナク土耳古ノ戰闘力ヲ増加シタルモノツィテ政府ノ措置ヲ齋シク具認致居候 右及報告候 敬具 
  13. ^ ○希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)[51](中略) 二、土國海軍 土國海軍ノ製艦計畫ハ希國ノ計畫程ニ大規模ナラサルモ大艦ヲ多ク含ムニ於テ之ニ優レルモノアリ即チ先ツ最大級「ドレットノート」型戰闘艦三隻ヲ算シ内一隻Reshadieh號ハ客年九月進水シテ目下武装中ニ属シ第二ハ即チ伯剌西爾政府ノタメニ英國ニ於テ建造シタル前記「リオ・デジャネロ」號ニシテ客年十二月末ヲ以テ購入目下武装中ニシテ第一ト共ニ本年中ニ竣功スヘシ亦第三ハ近ク英國Vickers會社ニ注文セラルヘシ
    更ニ製艦計畫ハ輕巡洋艦二隻及水雷驅逐艦十八隻ヲ含ミ内驅逐艦十二隻ヲ佛國Normand會社ニ注文シタル外他ハ何レモ英國Armstrong-Vickers「シンジケート」ニ建造契約ヲナセリ現在海軍力ハ戰闘艦五隻 甲装巡洋艦二隻 水雷砲艦二隻 水雷驅逐艦八隻 水雷艇八隻ニシテ詳細ヲ表示スルコト次ノ如シ(以下略)
  14. ^ ○希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)[54] 最近希土關係ハ著シク緊張シ來リタルカ兵力ノ優劣ハ形勢ノ推移ニ重大ナル關係ヲ有スルヲ以テ左ニ兩國陸海軍軍備ノ現況一班ヲ叙述セントス 一、希國海軍 希國海軍ノ製艦計畫ニ據ルニ未成戰闘艦(又ハ戰闘巡洋艦)三隻中第一「サラミ―」號ハ昨年中獨逸「ステッチン」ニ於テ第二ハ本月六月十二日佛國「セント、ナザール」ニ於テ何レモ建造ニ着手シ第三ハ近ク英國ニ於テ建造セラルヽ筈ニテ右三隻ハ既成甲装巡洋艦「オーエロッフ」號ト併セテ将來同國ノ海軍ノ主力ヲ形成スルモノナリ此外既成又ハ建造中ニ係ル軍艦ノ購入ヲ盡シ伯剌西爾ノ「ドレッドノート」型戰闘艦「リオ、デ、ジャネロ」號ハ昨年十二月遂ニ土耳古ノ手ニ奪ハレタルヲ以テ當時亞爾然丁智利ニ對シテ新造艦譲渡ヲ交渉シタルモ成ラス最近更ニ北米合衆國ヨリ其戰闘艦アイダス」及「ミッシシッピ」ヲ買受ケントシ同國政府トノ交渉略纏リタルモ議會ノ反對ニヨリテ破レ僅ニ紐育造船會社ニ於テ支那政府ノタメニ建造シタル一巡洋艦(二千六百噸)ヲ購入シ得タルノミ(同艦ハ六月十三日希國ニ向ケ出發シタリ)
    製艦計畫中ニハ更ニ三巡洋艦ヲ含ミ一隻ハ既ニ英國一「シンジケート」ニ注文セラレ他ノ二隻ニ關スル契約ノ成立亦近キニアリ何レモ英國巡洋艦Chathaur號型ニシテ速力二十五浬ヲ有スヘシ
    此ノ外水雷驅逐艦十二隻、潜水艇六隻、水上飛行機十個ヲ計上シ驅逐艦中ノ四隻(三十五浬)ハ前記英國「シンジケート」ニ注文ヲ了セリ現在ノ海軍力ハ甲装巡洋艦一隻 戰闘艦三隻 水雷驅逐艦十四隻 水雷艇六隻 潜水艇二隻ニシテ現在ノ海軍力艦種其他表示スルコト次ノ如シ(以下略)
  15. ^ 地中海及び黒海に於ける海戰[58] 開戰當初、獨逸地中海隊に属するゲーベン及びブレスラウの二艦は、ダーダネル海峡に遁入せしが、英佛兩國の抗議嚴しかりし爲め、土耳古政府は購入の名義を以て右の二艦を其の黒海艦隊の中に加へぬ。此の一事は、明かに土耳古が獨逸の同盟關係に在るを證せり。又匈國艦隊は、英佛艦隊の爲めに、アドリヤ海に封鎖せられ、英佛側は、墺匈國の領海たるダルマシヤ海岸諸島間の水道に機械水雷を布設せり。其の後千九百十五年五月下旬に至り、伊國の對墺開戰後、墺匈國艦隊は、アドリヤ海より伊國海岸に出動せしにぞ、伊國艦隊及び英艦二隻は之と交戰して敵の小艦三隻を撃沈せり、其の後墺匈國の潜水艦は、地中海に活動するの形勢ありて、シヽリー島附近に於て、十月六日、希臘の商船を撃沈し、又同月十七日には、佛國汽船一隻を撃沈せり、次ぎに黒海に於ける露國艦隊は、千九百十四年十一月十八日、セバストポール沖に於て、土國が先きに獨逸より購入せりと稱せる巡洋艦ゲーベン及びブレスラウと交戰し、ゲーベンは損傷を受け、火災を起して遁走せり。千九百十五年一月十八日、露艦側は土耳古の商船數隻を撃沈し、更に同廿四日には、飛行機十六臺を載せたる商船數隻を撃沈し、其後又ブルガリヤ沿岸を砲撃せり。されど、此方面に於ては遂に目覺ましき海戰を見ずして終れり。
  16. ^ インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦は[66]、本艦に対抗するため黒海艦隊に配備された[11]
  17. ^ モニター艦ラグランの主砲は、ギリシャがドイツ帝国に発注した戦艦サラミス (Salamis) のためにアメリカが製造し、その後イギリス海軍が引き取った45口径14インチ砲である[75]
  18. ^ 對土協約議定書の調印[88](中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)

脚注

[編集]
  1. ^ a b 地中海戦隊 1928, p. 18.
  2. ^ ミリタリー選書(6)世界の戦艦 2005, pp. 210a-211巡洋戦艦ヤウズ(トルコ)/ドイツとの絆を強めた譲渡戦艦
  3. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 33モルトケ級巡洋戦艦
  4. ^ a b 世界海軍大写真帖 1935, p. 69土耳古
  5. ^ a b 死闘の海 2004, pp. 130–131ドイツ地中海戦隊
  6. ^ a b c トルコ近現代史 2001, p. 146.
  7. ^ #地中海方面作戦梗概 pp.8-9
  8. ^ a b c 地中海戦隊 1928, p. 41(原本49頁)
  9. ^ 死闘の海 2004, pp. 60–63トルコ海軍
  10. ^ a b ミリタリー選書(6)世界の戦艦 2005, p. 210b.
  11. ^ a b ミリタリー選書(6)世界の戦艦 2005, p. 211.
  12. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 112a-113トルコ/ヤヴース級
  13. ^ ドイツ海軍魂 1981, p. 54.
  14. ^ 地中海戦隊 1928, pp. 306–308附録第一 士官以上配員表
  15. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 91マクデブルク級小型巡洋艦
  16. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 35–37マルタ寄港
  17. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 30–31ブレスラウに配備される
  18. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 33–34地中海派遣命令が下る
  19. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 58–60.
  20. ^ a b ドイツ海軍魂 1981, p. 73.
  21. ^ a b 地中海戦隊 1928, p. 19.
  22. ^ a b ドイツ海軍魂 1981, p. 69.
  23. ^ 地中海戦隊 1928, p. 21.
  24. ^ 死闘の海 2004, pp. 131–132開戦直後の地中海を巡る動き
  25. ^ ドイツ海軍魂 1981, p. 71.
  26. ^ 地中海戦隊 1928, pp. 350–351軍艦ゲーベン及ブレスローのダーダネルス侵入(自一九一四年八月三日 至仝年仝月十日
  27. ^ 死闘の海 2004, pp. 132–134トルコへ向かうゾーヒョン隊
  28. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 77–79メッシナ港脱出
  29. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 79–80英艦を追い払う
  30. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 80–81コンスタンチノープル入港
  31. ^ a b c ハワード、第一次世界大戦 2014, p. 72.
  32. ^ a b 死闘の海 2004, pp. 215–217開戦直後の黒海を巡る戦い
  33. ^ a b ドイツ海軍魂 1981, pp. 87–88.
  34. ^ 死闘の海 2004, pp. 134–136トルコに編入されたドイツ軍艦
  35. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 147–151(原本251-259頁)第十章 老衰國土耳古の革命/青年土耳古黨の出現/モナスチールの血祭り
  36. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 151–153(原本259-262頁)憲政土耳古成る
  37. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 153–154(原本259-265頁)土耳古革命と英國の對獨政策
  38. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 155–157(原本266-270頁)第十一章 土耳古民族中心主義/土耳古帝の廢位
  39. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 157–158(原本271-273頁)土耳古の新憲法發布
  40. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 180–182(原本316-319頁)伊土戰爭
  41. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 181–183(原本319-322頁)歐洲列強の態度
  42. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 184–186(原本325-327頁)土耳古の敗軍、英國の仲裁
  43. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 183–184(原本322-325頁)バルカン同盟成る
  44. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 189–190(原本335-337頁)バルカン戰爭の結果
  45. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 70希臘
  46. ^ #土国譲渡 pp.2-4(珍田大使より小村外務大臣へ報告)
  47. ^ #土国譲渡 p.9(官房機密第417号、明治43年7月14日、財部彪海軍次官より石井菊次郎外務次官へ)
  48. ^ a b #土国譲渡 pp.12-16
  49. ^ 死闘の海 2004, pp. 265–268(7)トルコ海軍の総括
  50. ^ ハワード、第一次世界大戦 2014, p. 71.
  51. ^ #大正3、希土軍備 pp.1-2
  52. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 38aエリン
  53. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 38bエジンコート
  54. ^ #大正3、希土軍備 p.1
  55. ^ a b #大正4、英土国交断絶 pp.1-2〔 ○英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日報告) 〕
  56. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 38c.
  57. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 286–289(原本522-525頁)獨逸土耳古を籠絡す
  58. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, p. 334(原本618-619頁)
  59. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 286–287(原本522-525頁)獨逸土耳古を籠絡す
  60. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 90–91対ロシア開戦
  61. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 287–288(原本525-527頁)汎囘教運動
  62. ^ ドイツ海軍魂 1981, pp. 92–93.
  63. ^ a b ドイツ海軍魂 1981, p. 93.
  64. ^ 通俗的世界全史、16巻 1928, pp. 288–289(原本527-529頁)土軍東西共に敗退す
  65. ^ 死闘の海 2004, pp. 217–222ロシアとトルコが抱える問題
  66. ^ 世界の艦艇完全カタログ 2019, p. 40インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦
  67. ^ 死闘の海 2004, p. 219.
  68. ^ 死闘の海 2004, pp. 192–193, 220ロシア、水上機母艦を投入
  69. ^ 死闘の海 2004, pp. 249–250ロシアの国内情勢と海軍への影響
  70. ^ 死闘の海 2004, pp. 251–252黒海の状況
  71. ^ a b c d Battle on the Seven Seas, p.209
  72. ^ a b Battle on the Seven Seas, p.211
  73. ^ Battle on the Seven Seas, pp.210-211
  74. ^ Battle on the Seven Seas, pp.212-213
  75. ^ 福井、日本戦艦物語(I) 1992, pp. 276–277.
  76. ^ Battle on the Seven Seas, pp.213-214
  77. ^ Battle on the Seven Seas, pp.215-216
  78. ^ Battle on the Seven Seas, p.217
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  80. ^ トルコ近現代史 2001, p. 151.
  81. ^ 通俗的世界全史、17巻 1928, pp. 199–201(原本355-359頁)土耳古の單獨講話
  82. ^ 通俗的世界全史、17巻 1928, p. 347(原本648頁)
  83. ^ トルコ近現代史 2001, pp. 151–158首都の混乱と抵抗運動の準備
  84. ^ 通俗的世界全史、17巻 1928, pp. 348–350(原本651-654頁)希土戰爭
  85. ^ ハワード、第一次世界大戦 2014, pp. 193–196オスマン帝国
  86. ^ トルコ近現代史 2001, pp. 180–188ローザンヌ条約とトルコ共和国の成立
  87. ^ 通俗的世界全史、17巻 1928, pp. 351–353, 353–355.
  88. ^ 通俗的世界全史、17巻 1928, pp. 355–357(原本665-669頁)
  89. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 112b-113.
  90. ^ トルコ近現代史 2001, pp. 228–233第二次大戦とトルコ
  91. ^ トルコ近現代史 2001, p. 232.

参考文献

[編集]
  • 新井正美「第六章 第二次立憲政の時代(一九〇八~一九一八年)」『トルコ近現代史 イスラム国家から国民国家へ』みすず書房、2001年4月。ISBN 4-622-03388-7 
  • (監修)毒島刀也、(著者)門田充弘、神奈川憲、小高正稔、後藤仁、谷井成章、山崎龍『COSMIC BOOK 世界の艦艇完全カタログ 第一次世界大戦から現代までの全1249種』株式会社コズミック出版〈ミリタリーシリーズ〉、2019年7月。ISBN 978-4-7747-8657-5 
  • 『世界史リブレット 小松香織著 オスマン帝国の近代と海軍』(山川出版社)2004年2月出版
  • 『山川歴史モノグラフ 小松香織著 オスマン帝国の海運と海軍』(山川出版社)2002年11月出版
  • 世界の艦船増刊 ドイツ戦艦史』No.405(海人社)1989年3月号増刊
  • 『世界の艦船増刊 イギリス戦艦史』No.429(海人社)1990年11月号増刊
  • ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫 訳、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。ISBN 4-938461-35-8 
  • カール・デーニッツ『ドイツ海軍魂 デーニッツ元帥自伝』山中静三 訳、原書房、1981年12月。ISBN 4-562-01191-2 
    • 第三章 一九一二~一四年 巡洋艦「ブレスラウ」/第四章 1914年大戦勃発/第五章 「ブレスラウ」がトルコ艦「ミディリ」となる
  • マイケル・ハワード『第一次世界大戦』馬場優、法政大学出版部、2014年9月。ISBN 978-4-588-36607-9 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8 
  • 三野正洋、古清水正夫『死闘の海 第一次世界大戦海戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年7月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2425-4 
  • ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第五章 ソ連、南米3カ国、トルコ、ギリシャの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4 
  • Gary Staff, Battle on the Seven Seas: German Cruiser Battles 1914-1918, Pen & Sword Maritime, 2011, ISBN 978-1-84884-182-6
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ葛藤』。Ref.B02130343500。 
    • 『外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ軍備現況』。Ref.B02130343600。 
    • 『外事彙報 大正4年度(政-86)(外務省外交史料館)第一号/○英土国交断絶顛末ニ関スル英国政府白書摘要』。Ref.B02130352100。 
    • 『各国ヨリ帝国艦艇譲受方申出関係雑件(5-1-8-0-31)(外務省外交史料館)3.土国』。Ref.B07090410500。 
    • 『「本戦争中東部地中海方面ニ於ケル作戦ノ梗概(御前講演六月二十七日)海軍中佐 森田登」、奏聞及御前講演 巻3大正8年3月31日~14年9月24日(防衛省防衛研究所)』。Ref.C11081068700。 

関連項目

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外部リンク

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ゲーベン (巡洋戦艦)
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