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シュトラウス家

音楽家ファミリーとしての祖、ヨハン・シュトラウス1世

シュトラウス家ドイツ語: Familie Strauss)は、19世紀を中心にオーストリアで活躍した音楽家の家系である。比喩的に「シュトラウス王朝ドイツ語: Strauss-Dynastie)」と呼ばれることもある[1]。毎年元日にウィーン楽友協会の大ホールで開催されるウィーンフィル・ニューイヤーコンサートは、このシュトラウス家の楽曲を中心にプログラムが組まれる。

なお、同じオーストリアの音楽家オスカー・シュトラウスや、ドイツの音楽家リヒャルト・シュトラウスの一族との血縁関係はない。

歴史

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左からエドゥアルト1世ヨハン2世ヨーゼフ。別々に撮影された写真三枚の合成写真である。
ヨハン3世(1938年撮影)
エドゥアルト2世(1958年撮影)

前史

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家祖はヨハン・ミヒャエルというハンガリーユダヤ人[2][3]、1750年ごろにブダペストからウィーンにやってきた[4]反ユダヤ主義によってユダヤ人への世間の風当たりは強く、ヨハン・ミヒャエルはさまざまな苦労を強いられたという。苦労の末に彼はオーストリア人の漁師の娘と[5]1762年2月11日にシュテファン大聖堂で結婚し[4]、結婚を機にユダヤ教からキリスト教に改宗した[5][2]。シュテファン聖堂には「ヨハン・ミヒャエル・シュトラウス、奉公人(中略)洗礼を受けたユダヤ人、独身。オーフェンで誕生。ヴォルフ・シュトラウスとその妻テレジアの息子」という結婚記録書が今も残っている[4]

この結婚と改宗によってヨハン・ミヒャエルは当局からオーストリア人であると認められ、ドイツの姓を名乗ることを許された[5]。当時ユダヤ人の多くは姓を持っておらず[5]、ヨハン・ミヒャエルは姓を持つことでその出自を隠してヨーロッパ社会に同化したのである[2]。ただし、当局はユダヤ人への差別感情ゆえにぱっとしない姓をヨハン・ミヒャエルにあてがった[6]。それが「ダチョウ」を意味する姓シュトラウスであった[6]。ユダヤ人の血を引いているとすぐに判別がつくものだったが、ようやく獲得した姓をふいにすることを避けるために、ヨハン・ミヒャエルはその姓に異議を唱えることなく受け入れた[6]。彼は自分の子供たちがユダヤ人だと言い当てられることに尋常でない反発を示したという[6]

音楽一家として

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ヨハン・ミヒャエルの息子の一人であるフランツ・シュトラウスの長男としてヨハン・シュトラウス1世は誕生した[6][2]

ヨハン1世が幼い頃に、父フランツが営む居酒屋「良き羊飼い」が経営不振に陥って倒産してしまう。フランツの妻バーバラは過労がたたって1811年に病死し、フランツはその後を追うように1816年ドナウ川で投身自殺した[7][2]。親戚に引き取られたヨハン1世はすぐに丁稚奉公をするようになったが[7][2]、やがて奉公先を飛び出してミヒャエル・パーマーの楽団に入団した。これが、音楽一家シュトラウス家の始まりとなった。

ヨハン1世の息子ヨハン・シュトラウス2世ヨーゼフ・シュトラウスエドゥアルト・シュトラウス1世の三兄弟もそれぞれ売れっ子の音楽家となった。兄弟が音楽家として成功したのは、母親マリア・アンナ・シュトレイムの手腕によるところが大きい。このように兄弟がそろって音楽家として活躍したことから、音楽一家としてシュトラウス家はヨーロッパ中で有名になった。特にヨハン2世は、当時の世論調査によるとオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世よりも人気があった[8]

エドゥアルトの長男ヨハン・シュトラウス3世も音楽家として活動したが、一家の前世代ほどの人気は獲得できなかった。また、エドゥアルトの次男ヨーゼフの末子エドゥアルト・シュトラウス2世ウィンナ・ワルツ指揮者として活躍した。それぞれ知名度に大きな差があり、またヨハン3世とエドゥアルト2世の間に10年ほどの中断期間があるものの、一族の活動期間としてはヨハン1世が活動を開始した1823年からエドゥアルト2世の死去した1969年まで、およそ150年にわたる。

現在

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現在もシュトラウス家の血筋は存続しているが、今なおシュトラウス姓を名乗っている(血筋が男系で続いている)のは、三兄弟のうちエドゥアルトの子孫のみである。ヨハン2世には子がおらず、ヨーゼフの一人娘はアイグナー家に嫁いでその子孫はシュトラウス姓を受け継いでいない(ただし、「アイグナー=シュトラウス」と呼ばれることもある)。なお、ヨハン1世は愛人エミーリエ・トランプッシュとの間に庶子を少なくとも8人儲けているが、この血筋も断絶している。

長年ヨハン3世の子孫がシュトラウス家の嫡流として続いたが、1993年にヨハン3世の孫ヨハンが死去してこの家系も断絶し、エドゥアルト2世の家系が嫡流となった。現在のシュトラウス家当主は、エドゥアルト2世の息子エドゥアルト(3世)である。現当主はウィーン裁判官を務めるかたわら、シュトラウス研究所で一家についての研究をしている[9]

エドゥアルトの長男ミヒャエル・ヨハン(1988年生)は、2012年白血病によって24歳で死去した[10]。そのため、次期当主は次男トーマス(1990年生)となる予定である。

ナチス時代の扱い

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シュトラウス家がユダヤ系であるという出自を調べ上げたのは、ナチス・ドイツであった[11]メンデルスゾーンオッフェンバックグスタフ・マーラーといったユダヤ系作曲家の楽曲は禁止措置が取られていたが、シュトラウス家の楽曲は例外的に禁止されなかった[11]。シュトラウス家がユダヤ系であると報告を受けた宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、日記にこう記した[11]

「私は、それを公にすることを禁じた。なぜなら第一に、まだ証明されたわけではない。第二に、ドイツの文化的財産を次々と取り去ってしまうつもりはないからだ。」

1941年にヨハン・ミヒャエルの結婚記録書はベルリンに送られ、「洗礼を受けたユダヤ人」という記載のみが削除されたページに差し替えられた[11]。こうして、シュトラウス家がユダヤ人の子孫であるという事実は秘匿され、シュトラウス家の作品の演奏は公に認められたのである[12][11]。ただし、アドルフ・ヒトラー自身はシュトラウス家の楽譜をすべて廃棄するように命令した、とする説もある[8]

「Strauß」か「Strauss」か

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ウィーンの中央墓地にあるヨハン1世の墓、ヨハン2世の墓、ヨーゼフの墓、エドゥアルトの墓、いずれにおいても「Strauss」と表記されている。また、ほとんどのポスターや印刷物にも、「Strauss」と書かれている。ヨハン3世は「Strauss」を用いたし、エドゥアルト2世はすべての公式書類で「Strauss」を使用している。しかし、エドゥアルト1世は「Strauß」とサインしている。「Strauss」の使用が多いものの、統一されていたわけではないようである。そもそも「ß」は「ss(前のsは長いs)」から作られた文字であり、ドイツ語正書法の時代と地域で違いが出るものである。

現当主エドゥアルト・シュトラウス曰く、「シュトラウスのスペルは主に自己選択されたと、今後の家族のドキュメンタリーには書く必要がある!私はそれを求める!」

詳しくはこちらを参照。

署名

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ヨハン1世
ヨハン2世
エドゥアルト1世
ヨハン3世

系図

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ヨハン・ミヒャエル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フランツ・ボルギアス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マリア・アンナ
 
ヨハン1世
 
 
 
エミーリエ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨハン2世
 
ヨーゼフ
 
エドゥアルト1世
 
庶子8人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カロリーネ
 
ヨハン3世
 
ヨーゼフ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨハン
 
ヨーゼフ
 
エドゥアルト2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨハン
 
 
 
 
 
エドゥアルト(3世)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ミヒャエル・ヨハン
 
トーマス
 

脚注

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  1. ^ 河野(2009) p.185
  2. ^ a b c d e f 倉田(2006) p.175
  3. ^ Straussという姓については「シュトラウス」の項目も参照。
  4. ^ a b c 河野(2009) p.71
  5. ^ a b c d 小宮(2000) p.19
  6. ^ a b c d e 小宮(2000) p.20
  7. ^ a b 小宮(2000) p.22
  8. ^ a b 倉田(2006) p.184
  9. ^ https://web.archive.org/web/20141112232655/http://www.johann-strauss.at/biographie/dreduard.shtml
  10. ^ https://web.archive.org/web/20141112231724/http://www.johann-strauss.at/biographie/michael.shtml
  11. ^ a b c d e 河野(2009) p.72
  12. ^ 小宮(2000) p.220

参考文献

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  • 小宮正安『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』中央公論新社中公新書〉、2000年12月。ISBN 4-12-101567-3 
  • 倉田稔『ハプスブルク文化紀行』日本放送出版協会、2006年(平成18年)。ISBN 4-14-091058-5 
  • 河野純一『ハプスブルク三都物語』中央公論新社中公新書〉、2009年11月。ISBN 978-4-12-102032-1 
  • シュトラウス家系譜
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