エミール・ベルナール (画家)
エミール・ベルナール Émile Bernard | |
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ポール・セリュジエによる肖像画 | |
誕生日 | 1868年4月28日 |
出生地 | フランス帝国、リール |
死没年 | 1941年4月16日(72歳没) |
死没地 | フランス国、パリ |
国籍 | フランス |
運動・動向 | ポスト印象派、綜合主義、クロワゾニスム、ポン=タヴァン派 |
芸術分野 | 画家 |
後援者 | アントワーヌ・ド・ラ・ロシュフコー、アンドリース・ボンゲル、アンブロワーズ・ヴォラール |
エミール・ベルナール(Émile Bernard、1868年4月28日 - 1941年4月16日)は、フランスのポスト印象派の画家。
概要
[編集]エミール・ベルナールは、1868年、フランスのリールで生まれた。父は繊維業者であった。10歳の時(1878年)、一家はパリに移った。1884年、フェルナン・コルモンの画塾に入り、ここでルイ・アンクタンやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックと出会った。
1886年にコルモンのアトリエを追われ、ベルナールはパリを去ってノルマンディーやブルターニュ半島を歩いて旅した。コンカルノーでエミール・シェフネッケルと出会い、彼にポール・ゴーギャンへの紹介状をもらってポン=タヴァンに向かったが、この時はゴーギャンとほとんど話をする機会がなかった。
1886年から1887年にかけての冬、パリでフィンセント・ファン・ゴッホと出会った。この頃、ベルナールは点描による絵を制作している。1887年の春、再びノルマンディーとブルターニュ半島に向かい、サン=ブリアック=シュル=メールで2か月間滞在した後、ポン=タヴァンを訪れた。この時、ゴーギャンやシャルル・ラヴァルはカリブ海のマルティニークに出かけていた。ベルナールは、点描を捨て、ルイ・アンクタンとともにクロワゾニスムを発展させていった。
1888年8月、ベルナールはポン=タヴァンに戻ったゴーギャンと本格的な出会いを果たした。これ以後、2人は「総合主義」(サンテティスム)を作り上げていった。同年、総合主義の代表作「草地のブルターニュの女たち」を制作。1889年、ポン=タヴァンの画家たちのグループはパリのカフェ・ヴォルピニで展覧会を開いた。
1891年、ベルナールとゴーギャンとの間で諍いがあり、2人は絶交に至った。
1893年以降、パトロンのラ=ロシュフコー(en) の支援を受けながら、イタリア、エジプト、スペインなど諸国を転々とした。1904年帰国し、エクス=アン=プロヴァンスでポール・セザンヌと出会った。
晩年期には、ミケランジェロなどの影響を受け、アカデミックな画風に従うようになった。
1941年(当時72歳)、パリで死去した。
作品
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「ポール・ゴーギャンの肖像を背景とした自画像」1888年。
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「エミール・ベルナールの肖像を背景とした自画像」ポール・ゴーギャン作、1888年。
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「草地のブルターニュの女たち」1888年。油彩、キャンバス、74×92 cm。個人コレクション。
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「帽子をかぶった少年の肖像」1889年。
参考文献
[編集]- “エミール・ベルナール”. Salvastyle.com. 2012年11月3日閲覧。
文学
[編集]- Fred Leeman, Émile Bernard (1868 - 1941), Citadelles & Mazenod éditeurs; Wildenstein Institute Publications, 2013, 495 p. (ISBN 9782850885716)
関連項目
[編集]- アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
- ポール・ゴーギャン
- フィンセント・ファン・ゴッホ
- ポール・セザンヌ
- ポン=タヴァン派
- ナビ派
- ゴッホの手紙 - 弟テオドルス・ゴッホのヨハンナ夫人や、その子フィンセント・ゴッホに協力
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