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アルメリア

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Almería

  


 アンダルシーア州
 アルメリーア県
面積 296.21 km²
標高 23m
人口 199,237 人 (2022年)
人口密度 672 人/km²
Almeríaの位置(スペイン内)
Almería
Almería
スペイン内アルメリアの位置
Almeríaの位置(アルメリーア県内)
Almería
Almería
アルメリア県内アルメリアの位置

北緯36度50分0秒 西経2度27分0秒 / 北緯36.83333度 西経2.45000度 / 36.83333; -2.45000座標: 北緯36度50分0秒 西経2度27分0秒 / 北緯36.83333度 西経2.45000度 / 36.83333; -2.45000

アルメリアスペイン語: Almería)は、スペインアンダルシア州アルメリア県ムニシピオ(基礎自治体)。アルメリア県の県都である。イベリア半島南東部、地中海に面する。イベリア半島の南東端に位置するアルメリア都市圏の中心地であり、アルメリア・カボ・デ・ガタ、ニハール観光圏の中心地でもある。カリフアブド・アッラフマーン3世が、955年にこの都市を築き、一時交易で栄えた。アルメリアはヨーロッパの基準からすると、例外的に乾燥した気候である。

地理

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アルメリア県はアンダルシア州の最も東に位置し、アルメリア県都はその南海外線の一部に位置する。その面積は296.21平方キロメートルである。

アルメリア県都は西はシエラ・デ・ガドール(ガドール山脈)、北はシエラ・アルハミーリャ(アルハミーリャ山脈)の、南方の平野にある。それらの山脈の水を集めるアンダラックス川は、アンダラックスの谷を形成し、南東に流れ出て、平野に形成されている市街地の東側を通り、下流は三角の突端を形成している。アルメリアの東側にはシエラ・デ・カボ・デ・ガタ(ガタ岬山脈)やカボ・デ・ガタ、ニハール自然公園に至るニハール平野が広がっている。市街地の南は地中海に面し、港を擁するアルメリア湾が広がっている。県都の行政範囲は、川のより東側にも扇形に広がった形をしており、そこは農業用地になっている。

この地はアンダラックス川によって形成された沿岸沖積平野である。市街地は海抜16メートルだが、アルカサバの丘(86メートル)やトレカルデナスの丘(140メートル)など、市内にはもっと高い場所もある。

最上部の地層は、強度の低い第四紀の沖積堆積物である。

この地域はイベリア・マイクロプレートとアルボラン・マイクロプレートの接点であり、その地殻変動は現在も活発である。アンダルシア南岸一帯は、アフリカプレートからの押上が原因で、たびたび小中レベルの地震に見舞われる。この地域も例外ではない。

海岸線は35キロメートルほどで、そのうち約6キロメートルが市街地域にあたる。海岸は川による堆積物である砂に覆われている。砂浜は湾の長きにわたり、多様な16カ所が数えられる。市街地に属するところには3カ所がある。一方、東側には、高い自然の岸壁がある。また、アフリカに近いアルボラン海にあるアルボラン島は、行政的にはアルメリア県都に属している。

人口

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アルメリア県都の2022年の人口は19万9237人で、男女の内訳は、男性9万7026人、女性は10万2211人である。1900年では4万7326人であって、この120年で4倍となっている。平均年齢は41歳で、40歳代の人口割合が多い。2021年は初めて自然人口減少となり、死者が出生者より40人多かった[1]。このうち、外国生まれの人口は2万6979人で、13.54%となる。この外国出生者の人口に対する割合は、国内の基礎自治体の中では高いものとなっている。この中で、モロッコ人が1万954人(40.6%)と最も多く、次にコロンビア人とルーマニア人がそれぞれ6.8%、アルゼンチン人が6.4%となっている。27か国以上の外国出生者が住んでいる[1]

気候

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ケッペンの気候分類によると、アルメリア市の都市部の気候は温暖乾燥気候(ステップ気候)である。さらに、その行政分類による東側の方面では、また、4種に分類される。まず、海岸地域とステップ平野の温暖乾燥気候である。さらに、アルメリアの中標高地域では寒冷半乾燥気候、高標高地域には地中海性気候があるが、アルハミーリャ山脈の最高標高地域は例外で、地中海性海洋性気候である[2]

月ごとの気温差はほとんどなく、1月の気温は9~17℃、8月の気温は23~31℃の間で変動する。気温が40℃以上になることはほとんどないが、サハラからの高温気団の影響で、稀に起こることもある。最高気温の記録は2019年7月6日に発生した高温気団の吹き出しであったが、この現象は僅か30分しか続かなかった。 冬は非常に温暖で、夏は暑い。アルメリアはヨーロッパ大陸で、唯一氷点下を記録したことのない都市であり、最低記録は+0.1℃である[3]

年間平均日照時間は2,994時間で、完全な晴天日は108日となり、ヨーロッパで最も日照時間の長い都市のひとつである。平均湿度は65%で、年間平均雨天日数は26日、11月が最も雨の多い月である。平均降水量は200ミリメートルで、スペインで最も少なく(イベリア半島で最も少ない)、ヨーロッパでも最も少ない[4]

年間降水量は200ミリメートルで、アルメリアはヨーロッパ大陸で最も乾燥した都市であり、地中海沿岸でも最も乾燥した都市のひとつである。降水日は、年間平均25日で、降水量は非常に少ない。しかし、集中豪雨が毎年のように発生し、何らかの被害を与えている[5]。近年で大きなものでは、1973年に洪水が発生し、一帯で十数人の死者が発生した[6]。また、1800年代にも数々の洪水があったことが記録されている。特に、1891年9月には大規模な洪水が発生し、約2,000戸の住宅が流され、数人の子供を含む20人が犠牲になった[7]

アルメリアの夏は6月末から9月末までで、晴天の日が多く、8月が最も暑い。海水浴に向いているのは6月~9月で、海水温度は22~26℃。冬は11月末から3月末で、最も寒いのは1月。爽やかで、風の日や部分的に曇りの日が多い。雨が最も多いのは11月であるが、冬の期間に、少ないながらも降雨がある。冬の間の海水温度は、平均17℃。2月は最も低く15℃。観光や訪問に適している時期は、5~7月、10月である[8]

地勢・産業

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海岸

地中海のアルメリア湾に面する港湾都市。缶詰などの産業が発展している。白アルメリアブドウの生産で有名で、そのほか製塩、美しい大理石の切り出しでも知られる。コスタ・デ・アルメリアに位置しており、多くの観光客が訪れる。

降水量は年間で200ミリメートル程度であり、ヨーロッパで最も少ないとされる[9]

近隣の都市としては、約100キロメートル北西のグラナダ、50キロメートル西のアドラなどが挙げられる。シエラ・ネバダ国立公園にも近い。

歴史

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イスラーム金貨

先史時代

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県都から北西部にあるサンタ・フェ・モドゥハル(Santa Fe de Modújar)には、青銅器時代のロス・ミジャレス(Los Millares)の遺跡がある。これはイベリア半島で最も古い居住地跡で、紀元前5000年以前から存在していたという[10]。また、県都の北方のベナジャダックス(Benajadax)にもロス・ミジャレスの遺跡があり、これは紀元前2500-2000年の遺跡とされる。また、紀元前2300-1500年頃まで、エル・アルガル(El Argar)と名づけられた青銅器時代の文化圏がアルメリア一帯に存在した。

これらの地域(内陸部、現在のペチナ)は、イベリア原住民の町ウルチ(Urci)または、ウルキ(Urki)(紀元前5~2世紀)を形成していた。また、自然にできていた港がある海岸付近に、小規模の居住地が形成されており、その名残は現在の県都の様々な場所で発見されている(当時の海岸線は、現在よりも内陸部であったと考えられる)。

紀元前8世紀には、フェニキア人が植民地を形成し、現在のアルメリア県の地域では、アブデラ(現在のアドラ。県の西)とバリア(現在のビジャリコス。県の東)が最も重要だった。これらは商業と漁業の中心地であり、ギリシア人航海士との接触を保っていた。フェニキア人の支配がカルタゴ人の支配となったのは、フェニキア人の文明が半島の南西全域に広まったときで、この支配は紀元前209年の第二次ポエニ戦争で消滅する。フェニキアとカルタゴ時代の遺跡は、ベラ、ロス・ベレス、ダリアスに数多く残されている。

ローマ時代

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アルメリア地域は、スキピオ・アフリカヌスのカルタゴに対する作戦中にローマ帝国の手に落ち、ヒスパニア・ウルテリオル(イベリア半島の南西部のローマ領)の一部となった。ここはイベリア半島南部で最も重要な港のひとつとなった。ローマは領土の組織化、交通網、税金制度を作り、マカエル(Macael)の大理石を含む、領土の鉱物資源を計画的に開発した。県都の郊外には、ローマ時代のバイヤナ街道の遺跡が残っている。

前述の、当時のウルチ(Urci)または、ウルキ(Urki)と呼ばれた町の存在は、ローマ時代の長老ガイウス・プリニウスが『博物誌』の中で言及している。また、ローマ人は「偉大な港スペイン語版」(これは、現在のアルメリアから西に40キロメートルのエル・エヒドにあたるという)という名を付けている。さらに、ローマ時代の遺物として、数多くの陶磁器が多く発掘されている。それは紀元1世紀のものから、ローマ時代以降(5世紀から7世紀)に至る良質な陶磁器製造までの幅広い年代にわたるもので、多様である。このような発見は、長年にわたり、この地が継続的に居住地になっていたことを証明している[11]

その後、西ゴート王国は南下してイベリア半島に定着し、560年にはトレドに首都を置いた。東ローマ帝国は554年頃、地中海一帯をその影響下に置いていた。この地方では、ローマ帝国の末期からキリスト教が広がっていたという。

イスラム時代

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初期

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711年にアフリカ北岸からのウマイヤ朝の侵入スペイン語版により、西ゴート王国が滅亡した。ダマスカス生まれの王子であったアブド・アッラフマーン1世(Abd al-Rahman I、756-788)は、アッバース朝を逃れて756年にコルドバにて即位し、後ウマイヤ朝を築いた。そのあと彼は、ウルチ(現在のBenahadux、現在のアルメリア県都の北)に見張塔を造るように命じた。

後のムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)の時代の884年、北アフリカからイスラム勢力がペチナ(現アルメリア県都の北方、バヤナとも呼ばれる)に到着し、イエメン人、ユダヤ人、モサラベ人とともに居住地を形成した。彼らは当初の様々な争いを改め、891年に合意を成し、「海洋共和国スペイン語版」(891-955年)を形成し、モスクの周囲に作られていた町を城壁で保護した。この国は政治的、軍事的に自由な立場にあり、商業で成功した。彼らは絹製品、麻、農産物、工芸品、奴隷貿易などで地中海東部まで往来した[12]

発展期

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さらに、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世は、モサラベ派の反乱軍との戦いに勝利した後、955年、ここに「都市」の称号を与えた。彼は大規模な防壁や見張塔の建設を指示した。見張塔はアルカサバの頂上、現在の第3の囲いの中に建設された。また、王はここをイエメン人の部族アベンセラへススペイン語版に監視させた。それから大モスクが建立され、城壁が築かれ、要塞に併設された。城壁に囲まれた居住区がつくられ、そこには貯水場、高級店街、波止場、青空市場などが集中していた。

このようにして、バヤナ(Al-mariyat Bayyana)の街が建設されていき、現在のアルメリアの基礎となった。この見張塔からアル・マリヤット・バヤナ(ペチナとも)という街の名前が生まれた。これらの建設や防衛はノルマン人などの海賊行為から街を守るためであったし、また、当時チュニジアに建国され、後ウマイヤ朝と対立していたファーティマ朝に備える必要があったことが背景ともされる。

当時は、海岸に近い地域が3つの区に分けられており、それぞれ、ラ・メディナ、アル・ハウド(現在のラ・チャンカ区)とラ・ムサラ(祈祷所の意味)となっていた。また、出身地、信仰、商売によって住人はグループ化され、別々の居住地を形成していた。

ヒシャーム2世の死後(1013年)、コルドバを中心とする後ウマイヤ朝カリフが崩壊したことで、アル・マンスールの部下であったハイランスペイン語版がこの都市を支配した。彼は20日間にわたって都市を包囲した後、アルカサバの城を落として入城した。そして1014年に自ら国王の座に就き、タイファ・アルメリア(小王国)スペイン語版(1014-1091年)の初代王となった(在位1014-1028年)。彼は遠征も行ったが、アルメリアでは、現存する城壁(ハイランの城壁)を築いた。彼は戦線に疲れ、1028年に当地で死去した。

最盛期

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アルメリア小王国は1038年に隣国のヴァレンシア小王国に征服されたが、1044年に回復した。アルモタシンスペイン語版(スペイン語による通名、1037-1091年)は父国王の死後、1051年に14歳で即位した。この時期の40年間は、アルメリアが最も繁栄した時期であった。この主な産業は絹織物であり、高品質で種類も豊富であったため、アルメリアは多くの織機業で有名となり、輸出を行なっていた。当時は約1万軒の機織り場があったという。

また、産業は多様で、金属、モザイク、陶業、銅製品、製塩、乾燥果物などがあり、それらの産品は現在のチュニジアエジプトまで届けられていた。都市では、この平和な時期に泉、井戸、水路、王宮などが建設された。アルモタシン王は彼自身が詩人であり、その小さな啓蒙的な宮廷で文人や詩人を養うなど、アルメリアにおける短期間の文化開花の時期となった。

衰退期

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1085年、キリスト教国、カスティーリャ=レオン王のアルフォンソ6世トレドを占領。これを懸念したセビリアグラナダバダホスのタイファ王らは、 ムラービト朝の支援を要請した。アルモタシン王もムラービト朝の支援を要請したが、アルメリアの街は、イスラム教国にもキリスト教諸国にとっても、征服したい地域であった。ムラービド朝は1086年にアルヘシラスを経由してイベリア半島に侵入し、サグラカスの戦い(サラカの戦い)でカスティーリャ=レオン王を破った。1091年、最後の王であったアフマド・ムイズ・アド・ダウラが死去した数ヵ月後、ムラービド朝は、この小王国の継続的な紛争による弱体化を目の当たりにし、これを征服してアルメリア小王国は消滅した。

その後、キリスト教勢力側はアルメリア地方に侵攻しており、1147年、アルフォンソ7世の指揮の下、アラゴン人カタルーニャ人、ジェノヴァ人、ピサ人、カスティーリャ人の軍隊によって征服された。一方、現在のモロッコ地方から興ったムアッヒド朝は、1147年にムラービト朝を滅ぼし、アル・アンダルスに進出し、他のイスラム主要市を手中に収め、アルメリア地方も1157年に征服した。キリスト教の支配下は10年間であったが、この短期間の占領により、軍事的にも商業的にもその栄華は決定的な終焉を迎えた。また、この時代の絹や織物産業は、後にピサ、フィレンツェ等の地方へ伝えられていった。

ムワッヒド朝の後、13世紀にナスル朝時代が始まり、アルメリア地方はナスル朝王国が直面した絶え間ない内戦に巻き込まれた。1488年と1489年の戦役を経て、1489年12月26日、ついにカスティーリャ軍がアルメリアに入城し、その支配下に入った。

中世

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15世紀

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1487年に発生していた地震やグラナダ王国末期の内紛で大きな被害を受けたため、カスティーリャ王国の支配下に入った後には、防衛基盤を整備する必要性が生じていた。また、火器の発達により新しい防御技術に対応させる必要もあったため、第二の郭に改良が加えられ、アルカサバに第三の郭が建設された。

16世紀

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16世紀に入ると、北アフリカからの地中海岸での海賊襲来の多発により、住民はさらに内陸部(現在の県域)へ移住していった。1522年、アルメリアを震源とする震度7ほどの大地震が発生し、街全体が大きな被害を受けた。特にユダヤ人地区、アルカサバ、モスク、港、ラ・チャンカの地域で被害が大きかった。この地震で、2,500人ほどの死者が出たといわれる。一方、街が地中海の中部に位置している影響で、当時のセビリアが中心となっていた、外洋に通じる新大陸との貿易ルートとは縁のない状態であり、アルメリアの港の被災も相まって経済的発展から立ち遅れた。

16世紀後半にはアルプハラスの反乱と呼ばれるイスラムからキリスト教へ改宗した者たちの反乱が起こったが、1567年にガルシア・デ・ビジャロエルが反乱軍の攻撃から街を守ることに成功した。

17世紀

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地震後、旧市街は東へと拡大し、その郊外に新しい大聖堂の建設が始まり、後世に影響を及ぼす新しいアルメリアの誕生と、キリスト教都市の修道院的性格がもたらされた。城壁の周囲は、現在の市の中心にあるプルチェーナ門(Puerta de Purchena)と現在の遊歩道に達するまで整備された。現在のコンスティトゥシオン広場(当時はジュエゴ・デ・カニャス広場と呼ばれていた)には、1656年にカサ・コンシストリアル(市庁舎)が建設された。この時代に、サン・フランシスコ、サント・ドミンゴ、ラ・トリニダーなど、さまざまな教会や修道院が建てられた。ラス・プラスやラス・クラウスなどの教会は現存しているが、そのほかの教会は現存していない。このような状況のさなか、1658年の大晦日にアルメリアの街は再び地震に見舞われた。

近代

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18世紀

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18世紀に入ると、17世紀から継続していた、北アフリカ岸から地中海沿岸の都市を襲ってきていたバルバリア海賊の襲撃が減少した。それもあって、社会経済状況が改善され始め、農業や海上貿易が盛んになっていった。漁業技術も完成し、19世紀に栄えた鉱業も盛んになった。その結果、城壁の内外で市街化が始まり、新しい居住区が生まれ、通りが整備されていった。現在のグラナダ通りに面したラス・クルーセス(現在のアルファレロス地区と闘牛場と重なる)、ベレン通り近くのバリオ・ヌエボ、同名のランブラス通りの入り口にあるラス・アルマドラビージャスなどがその例で、主に漁師の家族が住んでいた。

19世紀

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19世紀には、それまでの2世紀の間に始まっていた緩やかな回復の延長上に、世紀末には貿易の開放により、鉱業と農業の成長の時代となった。政治上では、ナポレオン1世軍の侵略を撃退する半島戦争(または、スペイン独立戦争)と、1814年、フェルナンド7世が王となり、絶対王政を敷いた。

イサベル2世の治世下
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フェルナンド7世の没後、娘のイサベル2世(1833-1868)の治世になり、スペインでは自由主義体制が確立された。1833年、アルメリア市は新たに創設されたアルメリア県の県都と指定され、旧来のグラナダ王国から切り離された。このような中、メンディサバル首相により法制化(永代所有財産解放令、Desamortización de Mendizabal)が進み、旧来の宗教組織が所有していた多くの土地が自由化、販売(1836年)されることにより、城壁に囲まれた広大な空間が利用されるという、重要な都市改造をもたらした[13]

さらに、1855年には城壁の取り壊しによって、東への都市拡張が可能になった。この拡張の間に、パセオ・デ・アルメリア(Paseo de Almería)やプルチェーナ門(Puerta de Purchena)が建造され、新しい街造りが進行した。1862年10月20日、王妃夫妻は、他のアンダルシアやムルシアの都市を旅行する中、アルメリアも訪問した[14]

第1次共和制以降(1873年以降)
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様々な国内問題により、アマデオ王が2年ほどの治世後の1873年2月に退位すると、共和制が宣言された(スペイン第一共和政)。第1次国際労働者教会(第一インターナショナル)の影響に受けた勢力により、7月12日からカルタヘナ(現ムルシア州)の連邦(カントン)主義者による蜂起が起こり、主に半島南部に広がった(カルタヘナ・カントン事件)。カルタヘナには地中海における海軍基地があったことで、コントレラス将軍は、南岸のいくつかの市を蜂起側に引き入れようと7月28日に、2隻の駆逐艦、アルマンサとヴィトリアに、海兵等を乗せて出港した[15]。アルメリア市当局は事前に協議をしており、共和国軍1,400人と共に防衛することを決めており、市民の多くは郊外へ逃れた。29日にアルメリア沖に到着した蜂起軍は上陸用の船を出し、市の主要人物などを招聘して交渉をした。彼らの要求は正規軍を市から退去させることで、市民にカントン主義への賛同をするかどうかの自由な決定をさせること、義援金として当時の10万ドウロを納めることなどであった。

30日の朝から4度にわたり、駆逐艦からアルメリアの防衛線と軍事施設に対する砲撃が始まり、アルメリアから応戦した。市は降伏しなかったため、コントレラス将軍は同日夜7時、グラナダ沿岸のモトリルに向けて進路を取り、アルメリア市は建物に多少の被害を受けたが、人的被害は免れた。この夏には7月半ばから9月初めまで、アルメリア県出身のニコラス・サルメロンが共和国の大統領であった。

ボルボン王政時代の復興(1874年 - 1931年)
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1885年からはコレラが流行したことで、公衆衛生への配慮が必要となり、市街地への水の供給が必要となった。アルハドゥラの近辺からサンタ・イサベルの貯水場まで、新たな地下水路により水が供給されるようになった。この頃から、鉄鉱、ブドウ、柑橘類の輸出が盛んになり、経済復興が定着した。これに伴い、初めての電話線の敷設(1888年)、発電所(1890年)、鉄道駅(1893年)、港湾の再構築(1908年)等のインフラ件建設が次々と行われた。また、外資により、アルキフェAlquife鉱山(グラナダ県)での鉄鉱石採掘が盛んになったことで、生産物の船舶輸送の必要性から、英国桟橋Cable Ingles(1904年)、後にはフランス桟橋Cable Frances(1920年)が建設され、鉄道も強化された。

しかしながら、20世紀の始めにはこれらの産業が後退したことで、かなりの不況に陥った。

スペイン内戦(1936年 - 1939年)
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スペイン内戦中の1937年5月31日にアルメリアは、ドイツ海軍による砲撃を受けた。これは当時スペイン東岸部の不介入的哨戒活動のために派遣されていたドイッチュラント級装甲艦ドイッチュラント」が、5月29日に共和派空軍の爆撃に遭って96名の死傷者を出し、それに激怒したアドルフ・ヒトラーが、ドイッチュラントの同型艦で当時共に派遣されていた「アドミラル・シェーア」に、報復として共和派海軍の根拠地だったアルメリアを攻撃するよう命令したからである。「アドミラル・シェーア」は駆逐艦4隻を伴ってアルメリアを攻撃し、この攻撃によって市民側に死傷者が出たほか、建物が破壊されるなどの被害が発生した(アルメリア砲撃)。

市では、1937年1月からの構想により、16か月をかけて防空壕が建造された。これは廃線になった鉄道の用材も利用され、約4万人を収容できるものであった。これは2006年に修復され、欧州の中でも保存状態の良いものの一つである。

交通

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陸上交通

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高速道路A-7号線とA-92号線の利用が可能である。

海上交通

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地中海に南方に開いているアルメリア港は、アフリカ北岸のスペイン領メリリャモロッコ(ナドル)への航路があり、地中海の観光クルーズの寄港地にもなっている。レジャー用マリーナもあり、自家用レジャーボートを係留することができる。1990年代半ばから順次拡張されてきている。高速7号線(A-7)より、438番出口から港エリアへと到達できる。一帯は、漁港(西側)と物流エリア、フェリー発着桟橋、レジャーエリア(東側)となっている。

空港

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郊外にはアルメリア空港があり、マドリードロンドンブリュッセルなどに定期便が就航している。

エッフェル設計の駅舎
広場
タベルナス砂漠

文化遺跡と見どころ

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  • アルカサバ城塞とハイランの城壁 - ラ・アルカサバやハイランの城壁などの一帯が、アル・アンダルス時代のアラブ文化、歴史的遺物として残されている。これらは10世紀から建設されていった中世の要塞である。1522年に地震で損傷。1931年6月にスペインの歴史財産として指定された。2018年には約30万人が訪れている。
  • アルメリアの鉄道駅 - 1893年に完成したが、1895年から使用されるようになった。19世紀末当時の流行りのスタイルであった、鉄とガラスを使用した建築の典型である。2000年から使用されなくなった。現在の駅は移転し、現代的なデザインになっている。
  • タベルナス砂漠英語版 - アルメリア市から北内陸31キロメートル(アルメリア県)にあるヨーロッパで唯一の砂漠である[16]。1960-1970年にかけて、300本以上の映画撮影が行われ、「ヨーロッパのハリウッド」と呼ばれていた。そのほとんどは、砂漠の風景を利用した西部劇映画(マカロニウエスタン)であった。頻度は減少したが、映画、ビデオ、コマーシャル撮影などで現在も使われる。ウエスタン風の建物などが現存する。『インディージョーンズ』、『クレオパトラ』、『続・夕陽のガンマン』なども撮影され、その時代の多数の有名スターが訪れた。三船敏郎アラン・ドロン共演の『レッド・サン』(1971年)も、一部ここで撮影された。1989年から自然保護景勝地に指定されている。三重の壁に守られ、内部にはかなり大きな庭園がある。
  • アルメリア小王国の旗 - アラブ時代のアルメリア小王国の旗に関して、1051年に書かれた詩の中で、アルカサバ城に翻る旗は「緑の旗で白い帯」と記述されている。これは欧州の中で最も古い旗であるといわれる。11世紀当時、このアルメリア小王国の旗を他国も模倣する傾向があった。この旗のデザインは、1918年に制定されたアンダルシア州の旗に受け継がれている[17]
  • アルメリア一帯のグリーンハウスの景観 - この平野一帯は、1960年代より年々農作物栽培のグリーンハウス面積が拡大している。現在では約3万ヘクタールがプラスチックやガラスで覆われており、「アルメリアのプラスチックの海」とも呼ばれている。人工衛星からの地球撮影では、全体的に白く見えたり、太陽光が当たり光って見える。このアルメリア一帯のグリーンハウスは、宇宙から確認可能な人工物である万里の長城よりももっと視認しやすいものとなっている[18]
  • ガタ岬
  • シエラネバダ山脈
  • コスタ・デル・ソル
アルカサバ城塞
城壁

スポーツ

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サッカークラブのUDアルメリアはアルメリアに本拠地を置いている。

姉妹都市

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脚注

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  1. ^ a b Habitantes Almería 1900-2022” (スペイン語). www.foro-ciudad.com. 2023年8月27日閲覧。
  2. ^ Atlas Climático Ibérico”. aemet. 2023年8月28日閲覧。
  3. ^ Meteorología, Agencia Estatal de. “Almería Aeropuerto: Almería Aeropuerto - Valores extremos absolutos - Selector - Agencia Estatal de Meteorología - AEMET. Gobierno de España” (スペイン語). www.aemet.es. 2023年8月28日閲覧。
  4. ^ El clima en Almería, el tiempo por mes, temperatura promedio (España) - Weather Spark” (スペイン語). es.weatherspark.com. 2023年8月28日閲覧。
  5. ^ Almeria, Diario de (2023年5月22日). “La DANA en Almería: calles cortadas, zonas inundadas y ríos llenos de agua” (スペイン語). Diario de Almería. 2023年8月28日閲覧。
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参考文献

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  • 山本隆太 著「自然環境」、加賀美雅弘 編『ヨーロッパ』朝倉書店〈世界地誌シリーズ〉、2019年、10-27頁。ISBN 978-4-254-16931-7 

関連項目

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アルメリア
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